顔というもの

(その十)


人の顔というものは、この世に生を享けてからその生を閉じるまで
常に変わり続けているものだ。

赤ん坊(赤い顔して生まれるから赤ん坊というらしい)がひたすら
乳首を捜している時は、みな似たような顔をしている。
産院の新生児室を覗いてご覧なさい、どれが我が子かすぐ分かりま
すか?

だんだん知恵がついてきて生意気を言うようになると、顔も親の
どっちかに似てくる。小さい子は会う度に顔が変わって楽しいものだ
が、今のところ、なかなか孫にも逢えない。離れているし、まだ幼い
し、それぞれ生活のパターンも違うし・・・仕方がない。


さて、波乱のない穏やかな生活を送っている人は、実に穏やかな顔
をしておられるものだ。
私は、そういう顔になりたいとずっと憧れてきた。

環境以前に自分の性格を先ず改善しなければならない。
しかし、「習い性となる」の諺どおり、日常の生活、心の葛藤などが
顔を作るのも確かなようだ。

おっとりとしていられない多忙の中で、人間関係の難しさも味わい、
時には、胸の中を荒々しく掴み出されるような言葉を浴び、それを
堪える苦しさは並大抵ではない。
そういう時期の私の顔はどんな顔だったろう。

写真は実に正直だ。
折々の顔は、生きてきた私の歴史をみるようだ。

毎日が日曜日となった今、もう歯を喰いしばる必要もないし、気楽に
やりたいことをやれる時間はたっぷりある。
しかしこうなるとどうも時間だけがたっぷりあって意欲のほうが・・・

漸く本来の私の性格に戻ったようだ!
≪ナ・マ・ケ・モ・ノ≫で〜す。あ〜あ、しんどかったわ〜。



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