来し方を想ふ


(8) ヴェニスの商人


父の仕事の関係で、本屋さんというのか、何か書籍を
扱う人と繋がりがあったことがある。
熊本時代だから、私まだ十八・九歳だった。
後々、我が家の狭い暮しに本の山を作った原因となった
人だが。
この人の会社が盛んだった頃、会社で前進座の公演が
あるからと、招待を受けた。
一番前の所謂かぶりつきに座った。

それほど広い部屋ではなかったので、役者さんの息遣い
が聞こえるようだった。
ああいう赤毛ものを観たのが、私が芝居というものを
観る最初だったので、芝居というのは舞台上で絶えず
動くものなんだと感動した。
ぼーっと突っ立っている役者は一人もいなかった。
立っているだけだのに、隣の男となにか喋っているかの
ような演技をしている。
シャイロックが迫真の演技をするとき、衣装は風を起こ
し、その風は、かぶりつきの私の鼻先をかすめた。


本物の芝居を観て、私はすっかりその気になった。
前後の経緯などは覚えていないが、YWCAに入り、
演劇部で、輪読だなんてことを経験したのはご愛嬌。


なにが原因だったのか、この本屋さんが倒産して相当
数の本が我が家に積まれることになった。
戦後間もない時代の本は、紙質も悪かったと思うが、
モーパッサン、ドストエフスキー、トルストイ、
ヘルマン・ヘッセなどなど、面白そうなものだけ拾い
読みしたものだ。
私は精読ができなくて、斜め読みばかりだから、きち
んとした記憶がない。

ついでに言うと、記憶力も悪いし、方向音痴だし、よく
この歳まで生きて来られたと我ながら感心している。
(H.18.7.28記)


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