来し方を想ふ


(3)母の焼餅


記憶力の悪い私だのに、歳をとって益々おぼろげになった
記憶を辿って書いているので、話の時期が多少ずれている
かもしれない。

誰にも関心のない話を書いているわけで、息子達が仮に
読んだとしても、昭和何年とか、どこで誰がなんてどうで
もいいことなので、このままうろ覚えを書いていこう。


どういうコネがあったのか、私は保険会社に就職した。
解約係だった。薄っぺらな社報か何かに、生意気に小説
みたいなものを書いた。忘れもしない「せんべい布団」と
いう題名だった。引揚寮の庭の椅子に座って、いっぱし
ぶって無い頭をしぼったものだ(笑)

どうも時期がはっきりしないのだけど、速記の学校にも
行ったのよね。
父と兄が、兄の旧制高校時代の友人と一緒に、雑誌を出し
た。私も労働基準監督署の偉いさんのところに取材に行った
りして。
速記を少しぐらい勉強したといったって、実戦では屁の役
にもたちゃしない。要約筆記よね。

「正論」だなんて、理屈っぽいこんな雑誌が売れるわけも
なく、五号で廃刊!! 当たり前よねぇ。(笑)


ある日、母が珍しくプンプンしていた。
なんだか父が浮かれているというのだ。“なんでぇ??”
まだまだ子供の私にはよくわからない世界だけれど、
寮のMさんというおばさんと、“夕方になると楽しそうに表
で喋ってるのよォ。みっともないッ”

Mさんは未亡人で、ぽっちゃりした女だったからねぇ。(^.^)
そういえば、母はまだ四十代の女盛りだったもの。
焼餅の一つも妬くわよ。(H.18.7.6)


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