来し方を想ふ


(2)引揚寮は兵舎だった


(1)熊本城 で書かなかったことがある。
たった一度もらったSさんの手紙のこの一言「貴女はお嬢さんだと
思っていました」
後で人から聞いた話だが、この人の家は名門だったそうだ・・・。
当時18歳くらいだった私が受けた、生まれて初めて経験した
屈辱だった。
その屈辱感は、家がボロ家だとか、貧乏だとかということではない。

「貧しくとも、志は高く持て。金、金と金のことを口にするのは卑
しい人間だ」
嘗て、石原都知事が口にした【木っ端役人】に過ぎなかった父親に
いつもこう言って躾けられてきた私は、どんな環境にあっても、
心だけは豊かに生きたいと、努力もし、顔を上げて生きてきた積り
だったので、この一言は私の全人格を否定されたと思ったのだ。


さて、この引揚者住宅に入る少し前、つまり、父親の本籍地である
長崎の漁村から、母親の本籍地である熊本に来たのだが、取りあえ
ず入れられた所は、市内より少し小高い場所にある旧兵舎だった。

薄暗く軋む板廊下を挟んで部屋が並び、共同流し場、共同炊事場が
あって、一家族に一部屋が与えられた。
なにしろ柳行李と最低限の鍋釜、茶碗、箸と寝具だもの、家族六人
なんとか暮らせた。

17歳の私にとっては、身近にいる沢山の引揚者が繰り広げる
人間模様が珍しく、会話もあり、それなりに楽しい生活だった。

色白の中年婦人が流し場で使っていた石鹸は「ラックス」という
アメリカ製のものだった。どういうルートで手に入れていたのか
知る由もなかったが、欲しかった!
爾来60年、今でも「ラックス」は憧れの匂いだ。

斜め前の部屋に大藪さんという一家がいた。
私より少し年下の少年がいて、無類の読書家だった。
もう故人になられたが、大藪春彦という作家のお顔をなにかで拝見
して、いつも炊事場で一緒だった大藪さんというおばさんにとても
似ておられるのに驚いた。勿論作家は別人だろうが、そんな思い出
もある。(H.18.7.3)


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