来し方を想ふ


(15) 師範にはなったけれど


文化書道は、尋常小学校書き方手本 をお書きになった、
西脇呉石先生が始められた流派だ。
その美しく気品のある書に、私は心酔した。

まだ練習を始めて間が無いころだった。
ある日、一字だけを夢中で書いているうちに、ふっと、
なにかを感じた。その字の心とでもいうものだっただろう
か。 その文字の魂に触れたような気がした。

毎月、級が上がっていったが、証書が届いた日の夜には、
必ず亡父が夢に出てきた。不思議なことだったが、多分
喜んでくれていたのだろう。

そうこうする内に三段になり、師範の免状が届いた。

師範になれば、子供相手の寺子屋は開かれる。
あんな狭い家で、私は図々しくも寺子屋を始めた。
恥ずかしかったけど背に腹は変えられない内職だもの。
かなりの子供さんが来てくれた。有り難かった。

通信教育は続けて受けていたがだんだん難しくなってきた。
六段までなんとか辿り着いたのだが、そこで行き詰った。
形式とか技術は大体習得したが、それから先が見えない。
通信教育の限界だった。

ある日、浅草で師範以上の書道展があった。
私は「一切空」と横額を書いて出したのだが、生意気にも
般若心経の心を書いたとの自負は見事に打ち砕かれた。

世田谷の経堂にお住まいだった、ある先生の一言だった。
(H.19.1.23記)


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