何も起きることがない世界。
    淡々と、ただ静かに時間だけが流れていく。
    私はその心地よさに、ずっと揺られつづけていた。
    ここにいれば、総ての災禍に気がつくことがない。
    素晴らしい世界。
    彼はそこに、突然現れた。
    そして、とこしえの安らぎを与えるはずだった世界を
    総て壊してくれたんだ。
    でも、破壊を尽くした後、彼の背中に見えたものは
    もしかしたら、希望だったのかもしれない。
    私は願っていた。誰かがここから連れだしてくれることを。

    ……その人は……。


Kanon SS

WEEK END



一  土曜、放課後



 私がこうやって人と会うことに抵抗が無くなったのは、高校も二年に上がってから……そう、つい最近のことになる。
 土曜日の放課後。
 人混みが苦手な私は、帰宅ラッシュを避けるように幾分時間を遅らせて昇降口から出る。そして今日の待ち合わせの場所である、正門前の桜の木の下へ移動した。
 ふぅ、良かった。まだ相沢さんは来ていない。
 それを見てほっとする。人を待たせることは、あまり好きでは無いから。
「……」
 すっ、と空を見上げると、ぱあっと広がる満開の桜の花。そこから春らしい、暖かな木漏れ日が溢れる。そこから見える真っ白な雲と真っ青な空は、いつも雪雲に覆われてどんよりとしていた冬のそれとは比べものにならないほどのものがあった。

 さやさや……

 どこからか、緩やかな風が流れ、桜の木を気持ちよさげにたゆたわせる。
 すると、ひらひらと、桜の花びらが数枚、舞い落ちてきた。
 なんとなく手を差し伸べ、空中で掬い取る。取ることが出来たことに、なぜだか、ちょっとだけ嬉しくなった。
 手のひらに収まった桜の花びらを見ると、やっと、長い冬が終わったという気になる。
 そして、春が始まる。そんな気も。

 ……それから、数分待っただろうか。ようやく相沢さんが三年生用の昇降口から顔を出した。
 そして、待ち合わせの場所が決まっているはずなのに、きょろきょろと周りを見渡してから、こちらをまっすぐに見つめる。それでようやく私を見つけると、あ、と口を開くと、苦笑いしながらこちらへ向かってくる。……もしかしたら、待ち合わせ場所を忘れていたのかもしれない。
「こんにちは」
 相沢さんが私のところに辿り着いたと同時に、私は挨拶をした。
 すると、いつもなら、よぉ、なんていうのに、こんにちは、と丁寧な挨拶を返してきた。もしかしたら、場所を忘れたことを、ちょっとだけ悪かったと思っているのかもしれない。
「いいお日柄ですね」
「天野は相変わらず、おばさんクサイな」
 ……訂正。
 あの挨拶は、ただの気まぐれだったらしかった。
 でも、この言葉は相沢さんらしい。それに……他の人が言うとむっとしそうな冗談でも、それを許せてしまうところがある。
「ひどいですね。物腰が上品だと言ってください」
 ……私と相沢さんは、こうしてたまに時間を合わせては、とりとめのない話をするようになった。
 昨日は何があったとか、授業中にこんなことがあったとかっていう日常的な会話から、私たちが共有してきた『あのこと』まで。
「……また、あの子たちは…あの丘を走り回っているんでしょうかね」
「だろうな」

『あのこと』
 それは、他愛のない、地元の昔話。
 ここから、ある程度離れたところにある『ものみの丘』に住む妖弧の伝説。
 彼の地に住む妖弧が人間の元を訪れたとき、ことごとく災禍に見舞われる。――そんな、子供に聞かせる童話としてはあまりふさわしくない言い伝え。
 ……でも。
 それは、言い伝えではなくて、真実。
 ものみの丘には確かにそれが存在し、それは……私や相沢さんの元を訪れ、幸せを奪っていった……。
 人と話すこと、人と触れること、人と交わること。
 それは、これらを苦痛なものと思わせた。
 より深く情を交わしあったとき、その先にある離別がどういうことかを知ってしまった。
私にとってのそれは、まさに言い伝えどおり、災禍をもたらしたのだ。
 でも、相沢さんは違った。
 真琴を失った今でも、私の約束を守って、強くあってくれた。
 相沢さんは言う。……でも、天野がいなければ、俺はもしかしたらお前と同じ道を辿っていたのかもしれない。あの約束が無ければ、俺は行動を起こす気力すらなかったかもしれない……と。
 でも、そうではないと思う。
 結局、誰が何を言おうと、本人の意志が無ければ成り立たない。
 私は……。
 人と話なければ、人と触れなければ、人と交わらなければ。
 だから、私はそれらを全て避けるようになっていった。
 何もしなければ、何も起きない。嬉しいこと、楽しいことも、つらいことも、苦しいことも、何もない。
 ――それはとても素晴らしいこと、と本気で思っていたときもあった。
 私は、そこから緩やかに揺られるだけの存在になった。
 偽りの『素晴らしい世界』へ。

「はは…びっくりさせるようなことを言うな。想像してしまったろ」
「ええ、可笑しかったですよ、今の相沢さんの表情は」

 私は、弱かった。
 相沢さんは強かった。
 ただ、それだけのことだったんだ。

「でも、あの丘に住む狐が、みんな不思議な力を持ってるのだとしたら…たくさん集まれば、とんでもない奇跡を起こせる、ということなのでしょうね。たとえば…空からお菓子を降らせてみたり」
「なんだよ、そりゃ」
「夢ですよ、夢。空から、お菓子が降ってきたりすれば、素敵だと思いませんか?」
 相沢さんに夢を話すことは、楽しかった。
「思わないね。道に落ちたお菓子は汚いし、交通機関が麻痺してしまうだろ」
 たとえ、その答えが、素っ気ないものでも。
「じゃあ、相沢さんなら、何をお願いしますか?」
「そうだな…」
 そういうと、相沢さんは空を見上げた。
 私もつられるように、空を見る。
 吸い込まれそうな青空に、真っ白な雲を見つめ、彼は何を思うのだろう。
 真琴がまた戻ってくるように、とか、そういうこと、なんだろうか……。

 さああっ……

 少し強い風が、私の短めの髪を揺らした。
「……」
そのとき、私は、どうしてだろうか。
 それならば……相沢さんの願いが、叶いませんように。
 そう、思って、いた。



「……この辺りは、五月になってから桜が咲くんだな」
 空を見上げ続けながら、何か思うことがあるのか、そう聞いてきた。
 相沢さんは去年の冬に転校してきたから、きっと五月の桜が珍しいんだろうか。
「そうですね。でも今年は、これでも早いんですよ」
 それを聞いているのかどうかわからないが、相沢さんはふぅ、と一つため息をついた。そして一言。
「春が来て、ずっと春だったらいいのに、か……」
『みしおは、春が来て、ずっと春だったらいいと思わない?』
「!」
 何気なくつぶやいた彼の台詞。
 それは、私の心臓の鼓動を一瞬で跳ね上げた。
 今まで封じ込めていた記憶の殻を突き破って、一言一句を鮮明に思い出す。
 確かに私も『あの子』から聞いたことがあるフレーズだったのだ。
「なぁ……天野」
「……はい。何ですか?」
「あいつ……真琴さ、春に特別な思いがあったみたいなんだけど……何か知らないか?」
「何か、とは?」
そういえば。
 あの子も、春に対してはとても執着していた。
 訪れはゆっくりだけど、春は毎年やってくる。そういう意味では、あの子も、春を何度も経験しているはずなのに、人間となったあの子は特に強烈な憧れを抱いていたと思う。
「いや……なんとなく思ったんだよ。春を迎えられれば、もしかしたら……例えば、ああいう風に消えなくてすんだんじゃないか、とか、そんなことを、さ」
 相沢さんは、ずっと空を見上げたまま、そう言葉を綴った。
 そして私は、その言葉に何も言えなかった。
 そのとき、私の中に一つの憶測が生まれたからだ。
 それは――。
「ま、そんなこと言っても始まらないよな」
「?」
「湿っぽい話はこの辺りにしておくか。悪かったな、天野。こんな暗くなるような話をしちまってさ」
「……いいえ。今の話、興味深かったですよ」
 私は、なぜか慌てながらも、今できる精一杯の言葉を返した。
 すると、相沢さんは、こちらへ振り向くと、にこっ、と微笑み、ありがとな、と、なぜだろうか、私に礼を述べた。
「さて。そろそろ帰るか……と、その前に」
「?」
「天野ってさ、明日ヒマ?」
「言いませんでしたか? 私、日曜日は大抵本を読んで過ごします」
「……それって、ヒマってことだよな?」
「確かに、そうですね」
 少し失礼な発言だと思うけれど、相沢さんだから受け流しておく。
「それじゃ、明日、花見に行かないか?」
「――」
「見つけたんだよ、桜の木が結構ある公園。中はきっと混雑してるだろうけど、公園の中に入らなければいいよな? 外だって充分、桜を満喫できるはずだからさ。散歩がてら、ってことでどうだ?」
「……」
「あれ? どうした?」
「……」
「おーい?」
「……」
「天野さーん?」
「はい、いきます」
「うわっ!」
「どうしました?」
「いや……なんでも……」
 そう言いながらも、相沢さんの腰は何故か砕けていた。

 ……その日はそのまま別れ、帰路についた。
 何故か、いつもより足取りが軽くなっていた。

第二章 土曜、午後十時

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