| それから雅史は、言葉とは裏腹に一日一回は琴音のいる1−Bに行くようになった。 時間ぎりぎりまで、なんて事はない世間話をするために。 クラスの殆どが避けている琴音の席の周りは、授業が終わるとすぐにいなくなってしまっていたので、椅子に困ることはなかった。 「こんにちは」 そういって琴音の目の前の席に腰を下ろす雅史。 「………こんにちは」 琴音も、とりあえず挨拶する。 雅史が下級生の、しかも例の女の子に手を出している。 この高校にスポーツ新聞があれば芸能一面に飾られそうな(実際志保には大ニュースということで全クラスを回られた)この行動に、1−Bの生徒だけでなく、サッカー部の部員達も驚きの色を隠せず、その特異としか思えない行動を止めさせようとする人までいたが、雅史は構わず来たのだった。 特に本日金曜日は、上級生との兼ね合いで少し開始時間が遅れるため、少しだけ長く話せる日であった。 「姫川さんは美術部に入っているんだよね?」 「…はい」 「やっぱり、絵を描くことが好きだから?」 「…はい」 「好きな作家なんているの?」 「…特にいません」 こんな感じである。 傍目から見ると、一方的に雅史が話し、もう一方の琴音は、答えを求めてきたときだけ、はい、いいえ、など、簡単な答えを返すだけだった。琴音からしてみれば、会話に面白みをなくすことによって、話をすることを諦めてもらおう、という狙いがあるつもりだが、雅史は一向におさまる気配はない。 諦めさせる方法としては、雅史が来る前までに、琴音がいなくなることが一番最適だと思う。だが、それもできない自分に、失笑してしまっていた。 「佐藤さん」 「え? 何?」 「私と話をしても…全然、面白くないでしょう?」 「ううん」 軽く頭を左右に揺する。 「……私、話題も何もなくて……」 「うーん、じゃあさ、絵以外で好きなものって何?」 「え…?」 「僕、悪いんだけど、絵のことはあまりよく知らないんだ。それに、姫川さんが好きなもの、って絵以外知らないし」 「…そうですね…、動物が好きです」 「あ、僕も好きだよ。家にもハムスター飼ってるんだ。ジャンガリアンを二匹」 「そうなんですか?」 「うん、かわいいんだ」 飼っているハムスターを思ったのだろうか、にこっ、と微笑む。その笑顔に、わずかに琴音が動揺したようだ。 「ハムスターの種類もいろいろいるみたいですよね、ゴールデンとか、チャイニーズとか。でも、その中でも、一番小さい……」 「ロボロフスキー?」 「ええ、そうです。あの子が一番可愛いと思います」 「うん、顔とか、小さいからだですばしっこく動くところとか可愛いよね」 「ふふ…、ハムスターって、佐藤さんにかかると、みんな可愛いのではないですか?」 「あ…」 琴音は初めて、雅史に向かって、笑顔を覗かせた。屈託がない、純粋な笑顔に、今度は雅史が動揺したようだ。 「? どうしたんですか?」 相当おかしな顔をしたのだろう、不思議そうな顔をして琴音が聞いてきた。 「あ…うん、まあ、そうかな?」 そういいながら、あはは、と軽く笑いながら頭をかいた。 「ところで、姫川さんは、どういった動物が好きなの? 犬とか?」 「え? そうですね…、犬も好きですが、どちらかというと猫が好きです。他にも…特にイルカが大好きで…頭もいいし、仲間想いだし、愛らしい顔とかも…」 ここまで話して、はっとした。彼女自身、こんなに長い会話したのは初めてのことだった。 「へぇ…、じゃあ明後日の日曜日、水族館に僕とイルカを見に行かない?」 「え!?」 突拍子のない雅史のセリフに、動揺を隠しきれない琴音。 それって、いわゆる、「でーと」の誘いではないだろうか? それだけで、彼女の頭はかなり混乱した。 「それで、できれば、僕に、イルカのことを教えて欲しいんだけど…、あれ? どうしたの?」 「い、いえっ! なんでもありません!!」 「あ、嫌ならそれでも良いんだけど」 嫌です。 そう言いたいはずだ、と、思ってはいたが、 「別に…嫌では…」 と答えてしまっていた。 そして当たり前のことを気付く。――そう言ってくれてとてもうれしい――という琴音も存在することを。我ながら、複雑に見えて実は単純な思考回路が、なんともいえない重さを感じた。 一方、それを聞いてにっこりと微笑む雅史。 「それじゃあ、明後日、午後1時でどう?」 「……クラブがあるのではないですか?」 「ああ、基本的には午前中で終わりだよ。人間の集中力なんて、そんなに長く持つはずがないからね。時間だけかけて、だらだらしながらやるのが監督とかコーチとかも大嫌いなんだ。時間をきっちり、内容をぎっしり、っていうのが、みんなの考え方なんだ」 「はぁ…」 「で? どう?」 言った手前。そんな自分だけの言い訳が頭を通過した。 「行きます」 「うん、じゃあ、明後日、楽しみにしてるよ」 「……はい」 がぁ〜〜っ ドライヤーが放つ耳障りな音と共に生まれる、人工的に造られた熱風を、むしろ心地よく髪の毛に軽く櫛で梳きながら当てている。水分を丁寧に吸い取ったきめ細やかな髪の毛から仄(ほの)かに香るシャンプー特有の匂いが、あたりをやわらかく包みこんでいた。 そして、ある程度乾いたことを確認し、スイッチを切って、ため息をひとつついた。 「あ〜あ…」 そして、自分の身体を後ろに放り出すようにベッドの上にぱたり、と仰向けに寝ころんで、天井をただぼおっと見つめる。 「佐藤さん…、どうして私のことを構ってくれるのかな?」 そんなことは決まっていた。 ちから。 興味本位なんだろう、それしか考えられなかった。 「放ってくれたほうが…」 嬉しい? 「人を興味本位で見るなんて…」 そういうふうに見ているように思える? 訳がわからなくなって、額に右手の甲を当てる。 以前なら絶対に、雅史だからこそ断ったはずだった。 頭に置いてあった右手を壁にもたれかかるように置いてあるイルカのヌイグルミに伸ばし、胴体の部分を掴むと、それをきゅ、と軽く抱きしめる。 「ねえ、ルフィン…。私…、なんだか変なの…」 ルフィン、とはイルカのヌイグルミの名前だ。 「このままだと…、佐藤さんも私のせいで…」 ――不幸になっちゃうんだよ? それでもいいの? ……ダメだよね。 「明後日、行くの止めようかな…」 ――そうだ、そうすればいい。そうすれば、私のことをすっぱりと関係を切ってくれる。はずだ…。はずなんだけど、それも…。 「……ねえ、どうすればいいの?」 じっとそのヌイグルミを見つめる。何も答えられないルフィンは、いつもの通りの顔をしていたが、なぜか今は、困り果てて苦笑いを浮かべているような気がしたのであった。 「……そうだよね、自分で、決めなきゃ……」 今まで、全て自分で決めてきた。友達もいないし、それどころか両親までも、自分の存在にいい感情を抱かれていない。そんな人たちに相談しても、何の意味があるのか。人は、相談することによってわずかに束縛から解放され、自分の負担を軽くする事が出来るはずであったが、彼女にとってそれすらも存在し得ないものだったのである。 「うん…行くのを止めよう…。それが、私も……佐藤さんにとってもいい選択だよね……」 そのとき、にっこりと笑う雅史の顔が浮かんできてしまった。 (うん、じゃあ、明後日、楽しみにしてるよ) ――申し訳ありません。佐藤さん。 ぎゅ、とルフィンを顔のところで抱きしめ、ベッドにうつ伏せになる。 (うん、じゃあ、明後日、楽しみにしてるよ) にっこり微笑みながら言う雅史の言葉は眠りにつくまで鳴り止んではくれなかった。 『………こんにちは』 (………?) 誰かの声が聞こえる。しかし、周りを見渡したところで、何もない。 (?) これは夢の出来事であることはわかっていた。周りに何もないし、なにより、琴音以外の存在がないのだ。どこかの空間に放り出された、そんな感じだった。 『………こんにちは』 また聞こえる。声はすれども姿は見えないがこのまま返事しないのも申し訳ないと思い、返事をすることにした。 (こんにちは…あなたは………?) しかしそんな琴音の言葉には耳も貸さずおかしなことを言う。 『やった! 私の言葉が通じるのね? 長かったわぁ……』 そして、続けざまに、 『で、明後日、佐藤さんとのデート、行かないの?』 と質問してきた。 悩みの核心をつくこの質問に、わずかに驚きの声をあげたが、それを気に留めてもいないように言葉を続ける。 『私としては、行って欲しいんだけど…。折角、憧れの佐藤さんが誘ってくれたのに』 (貴女は、誰? なぜそんなことを言うのですか? ) 『…私…? ふふ、誰だと思う?』 (…誰でもいいです…。行きません。行くと…) 『不幸の予知が発動してしまう、って?』 (そこまでわかっているのなら聞かないで下さい。あなたにとやかく言われることではありません) 『そうもいかないの。それに"ちから"は大丈夫。一日くらい私が抑えてあげる』 (!?) 『だって、望んでいたことだから…貴女も、…そして私は貴女以上に、ね』 (望んでいた…?) 『うん…、だって…、やりたいことやっておかなくちゃ、もったいないじゃない? 今は、この瞬間は、もう戻らないんだから』 (なぜ、あなたの「やりたいこと」が私と佐藤さんがデートすることなんですか?) 『あれ? ここまでヒントを言ったのに、まだわからないの?』 (……わかりません) 『意外に頭が固いのね。……それも、貴女らしいけどね』 ふふふ、と、かすかに笑い声が聞こえる。 『手っ取り早く説明すると……私は半分の貴女って言えばいいのかしら?』 (!?) 『貴女自身の躰、半数の染色体で構成されているのは知ってるでしょ? 母親の遺伝子しかないことになるじゃない? で、それだと短命なのは他の動物を調べたりして、わかってるはずよ』 (…はい) 『でもね、本来父親の遺伝子を構成する側に、私が構成された……なぜかは知らないわ。だけど、そうすることによって生命のバランスが取れるようになった、普通の人みたいにね』 (…でも、染色体の数が今でも半分なのは、お医者様も保証しています…) 『私は【存在】はしているけど、【実在】はしていない。だから見えないの。簡単でしょ?』 (…幽霊みたいなものですか?) 『う〜ん、聞こえは悪いけどそう言うとぴったりだわ。なかなかいい例え方ね、さすが私』 また、くすくすと笑い声が聞こえる。 (…茶化さないで下さい) 『でもね、さすがに、普通の人と完全に同じ、ってわけじゃないのよね。それはなんだかわかるでしょ?』 (……"ちから"ですか?) 『そう、それが……う〜ん、なんていうのかな、拒否反応、が一番近いかな? 私は実在していないのに、遺伝子を構成しているでしょ? それで実在する貴女の方の遺伝子が、ときどき、私を認識しなくなるときがあるの。そのときに、私たちは反発しあって貴女がいう"ちから"が出てしまうのよね』 (……) 『ふう…ごめんね、限界みたい』 (え!? あ、あの……) 『でも、こうやって貴女と話ができるようにするだけでさえ、やっと出来るようになったんだからね』 (ちょ、ちょっと……待って……) 『じゃあね〜また明日〜』 それから琴音がいくら呼びかけても、『琴音』が返事をすることはなかった。 |