展望ラウンジ

************ ж 9 ж 46歳からの乗り歩き(1) ************
海岸電気を歩く…はずが

 月日は経ち、まだ
 百度と出掛けぬうちにもう40
 代も半ば。
 のうがきばかりで
 過しても
 客として
 行きかふ事無く
 年もまた越してしまい
 旅人を見送るばかりと
 なりました。

まばゆい総持寺

総持寺駅跡

 しばらく旅に出ていない。家族で出掛ける事はあるがそれはやはりちょっと違う。
 朝起きたらドカーンといい天気。夏の連休。実家でぼーっとしていても仕方が無い。という事でちょっと出掛ける事にした。でも1人は少し寂しいのであまり乗り気ではない長男(拓)を無理やり引き連れていった。
 実家からそう遠くは無いところに鶴見線がある。その手の人達には「プチ旅行先」として有名。今回はその大元を訪ねる事とした。鶴見線の前身は「鶴見臨港鉄道」であるが更にその前身があって、それが「海岸電気軌道」。大正14年から昭和12年まで鶴見の総持寺と川崎大師を結んでいた鉄道である。
 「海岸電気軌道」は大半が路面電車で産業道路を走っていた。よってその痕跡はほとんど残っていない。今回は廃線跡を訪ねるのではなく、その気持ち、総持寺から川崎大師へ、を訪ねる旅である。
 という事でスタートは鶴見駅。駅前に降り立つとまだ10時だというのにクラッと来るくらいの暑さだ。2007年8月17日。その前々日、前日と日本最高気温記録が更新されており、この日も午前中から気温はグリグリと上がってきている。
 建物の日陰を選ぶ様にして線路伝いに進めばすぐに総持寺の参道入り口。1歩足を踏み入れれば横浜の町中とは思えない静けさ。そして暑さ。参道の両側には巨木が建ち並んでいるが、あいにく日差しが参道方向から射し込んでいて日陰が無い。そのせいか人通りも無い。私も拓も早くも汗だく。
 だらだらとした坂を登って三松関で軽く曲がると木陰に入れる。しかし三門をくぐって境内へ入ればそこからは全くの日陰なし。なにしろふらっと出かけてきてしまったのでろくに下調べもしておらずどちらへ向かったら良いか解らない。(この「ふらっと」のせいでこの後も大変な事に)案内図を見て思案し、宝物殿に行ってみたいと言う拓を促してまずは仏殿へ。
 仏殿へと続く道は「あれっ?一般人が通って良いのかな?」という感じ。両側に芝が広がり足元はアスファルトではなく石敷だ。
 しかし、これが辛かった。雲1つ無い空から突き刺さる様に落ちてくる日差しが却下の白い石に反射してまるでオーブンの中だ。風はそよりとも吹かず苦行である。向唐門とそれに続く中雀門をくぐる時だけが救いとなる。特に中雀門は百間廊下が磨きぬかれており、涼風が吹きぬけるがごとくであった。
 「暑すぎだよ〜」と弱音を吐く拓を脱帽させて仏殿へ入る。しかし、本尊に手を合わせながら考えてみれば2人とも脱帽以前に、Tシャツに半パンとちょっと不謹慎な格好である。「まあ、誰もいないからいいか。お釈迦様許してください」とお願いを付け加えていたら背後に人の気配。でも、振りかえって見ればその人も同じような格好であった。
 「暑いですね」と挨拶を交わして次は仏殿の右手にある大祖堂。1番大きな建物だ。一拝して更に紫雲台、待鳳館をさらりと覗いたら取って返して仏殿を過ぎた先にある幾つかの建物をさらりと拝。
 総持寺は言わずと知れた曹洞宗の大本山で修行の場である。曹洞宗では永平寺も有名で修行の場として考えるとそちらの方が深山にあってよりそれらしい気もするが、総持寺は開けている上にちょっと山外へ出れば赤い灯青い灯の誘惑が待ちうけているのでより強い精神修業になるのかも知れない。
 そんな格好以上に不謹慎な事を考えつつ歩を進めると裏手の墓地に出た。総持寺でもう1つ有名なのが石原裕次郎の墓である。
 墓をただ見に行くというのもやはり不謹慎に思えるが、「古墳を見学に行くのとさほど変わりはないよな」、と自分を納得させながら、「さて何処なんだろう?」、と探しかければ、あちこちに「←裕ちゃんの墓」と案内が出ている。
 そこで拓が一言。
 「ヒロちゃんて誰?」
 「……」
 墓巡りを終えて戻ったところが宝物殿の脇。修行僧が暑さにもめげず掃除作業をしていた。
 拝観料を払って宝物殿へ。拓は寺の宝物といえば金銀財宝と勘違いしていた旨もあったが、陳列された品々に興味を持ってくれた様でいろいろと、これは何、などと聞かれ逆にこちらが困ってしまった。館内は他に人は無かったが、受け付けの人にトンチンカンな回答を聞かれてしまったかとひやひやする。
 宝物館を最後に総持寺を後にしたが、駐車場の奥や三宝殿に鶴見事故と桜木町事故の慰霊碑があった事を後で知り手を合わせられなかったのが残念である。ちなみに私の父はたまたま1本早い電車に乗れた事で鶴見事故の難から逃れている。
 総持寺参道の正面は線路で鶴見線は高架、東海道本線は踏切りになっている。その踏切りには歩道橋があって、そこに登ると鶴見線の高架上にあるホームの残骸を見る事が出きる。鶴見線の総持寺駅(本山停留所)跡である。
 この駅は海岸電気軌道の意を汲んだものであったのであろうが、なにぶん鶴見仮駅(その頃はまだ鶴見駅までは行っていなかった)や隣の国道駅と近すぎる。そもそも駅が出来た年には鶴見臨港鉄道が海岸電気軌道を合併しておりその7年後に海岸電気軌道が廃止となるまでは完全なる競合路線(同じ会社なのだからそういう表現も変だが)であり、5年後の昭和17年にこの駅も廃止となった。以来約70年。かつては寺社巡りがレジャーの中心であった事を静かに物語っている。
元祖総持寺駅跡の公園

国道駅

 鶴見線と京浜急行の高架線の間にぎゅっと挟まれたような東海道その他の路線を渡り京浜急行の高架に沿って歩く。
 「今度はどこ行くの」と、問う拓に、
 「昭和を見せてやるから」と歩を進める。
 程なく小さな公園。ここが海岸電気軌道の起点総持寺駅跡である。ここから少しの間は路面電車ではなく専用の線路を走っていた。だから橋などにその面影が残っているそうだが、私達は住宅街を突っ切ると国道15号へと出た。すぐ右手を鶴見線が鉄橋で渡っている。
 「ほらあそこが昭和だ」
と指差した先が鶴見線国道駅。本山停留所と同じく昭和5年の開業である。
 しかし、道路の反対側からではツタの絡まる建物と高架下に口を開ける暗闇が見えるのみで拓にはまだピンと来ない様だ。
 なかなか変わらない信号を待って穴倉に入り込めば
「ウワァ〜、何これ。店やってんの?人住んでんの?」
 実際のところ昭和は昭和でも私の親世代の昭和であって、昭和中期生まれの私にとっても拓同様異空間の感は否めない。しかし、「ちょっとトイレ」と言って入っていった拓が無言で出てた。私ならなんの苦にもならない環境であったが、この辺りが平成産まれとの違いなのであろう。
 ちょっとは涼しいような気がする昭和の暗がりからホームへ上がれば本当に涼しい風が吹き渡って、とはいかず、やはりじっとりと暑い。空はうす曇となって直射日光は無いものの空気がベッタリとはりついて来るようだ。上空で鳴いているのはハトでもカラスでもない。それで海の近さを感じさせられるが、だからといって涼しく感じるわけでもない。ホームには「カモメに注意」の看板がかかっている。
 10分程待ってやってきた海芝浦行き電車のなんと涼しい事か。出来る事ならこのまましばらく乗っていたかったがトコトコッと走れば次の目的地。
 浅野駅は三角形の変わった形と木造屋根が面白い駅ではあるが駅前は鶴見線のイメージとは違って、大工場がデーンでも大海原がドーンでもなくノペッとしていて運河がチョコッと、と少々殺風景だ。左手踏切りの先には切れ目なく車が行き交う産業道路とその上には高速道路。
ゴム通り

リトル沖縄

沖縄土産

 時刻は11時半だがここで昼食にする。
 駅前の道から産業道路をまっすぐに突っ切った先はゴム通り。この名の由来は昭和5年に横浜ゴム横浜工場がこの地に出来た事に由来するそうだ。もっとも、工場自体は戦災により?移転してしまい名前のみが残っている。しかし、今でも戦前の名残が残っているものがある。それはリトル沖縄。昔沖縄の人達がこの辺りの工場へ勤める為に移り住んだ地区で多くの沖縄料理店が集まっている。そこで昼食にしようという訳だ。暑いときは暑い地方の料理である。
 交差点を渡ってゴム通りに入るとすぐに沖縄料理の店が現れた。しかし、ここはまだはしり。この先に沖縄の商店街がある。あるはず。あれ?進むに連れて沖縄らしさが薄らいでいくような。椰子の木が生えていて南国らしい雰囲気ではあるが沖縄ではない。でも暑さだけは南国の沖縄の更に南国の様相を呈している。
 20分ほど歩いたところにあった公園で一休み。持参した飲み物が底をついた。
 「沖縄、どこにあるの?」とかなりうんざりぎみの拓。
 「もうすぐだよ。ほらここは栄町だろ。たしか栄町商店街だった様な気がする。」
 粘つくような汗をかきながら歩いているうちについに自由の女神の足元まで来てしまった。もうゴム通りの外れである。時刻もお昼をまわってしまった。
 通りかかった人に尋ねると
 「栄町はあちらだけど商店街なんてあったかしら」と私達が歩いてきた方を指した。
 「ゴメン拓。間違いだったみたい。仕方ないから戻ろう」
 「まったく、いいかげんなんだから。ブツブツブツ」
 帰りはゴム通りから1本外れた道を通った。脇を走る車がわずらわしかったのとなんとなく癪だったからである。住宅街の道は静かで良かったが暑さは変わりなく、そして飲み物を手に入れる事も出来なかった。
 ズルズルポクポクと歩いて高速道路がやっと間近になったところで道は小学校に突き当たった。入舟小学校。海辺らしい名前である。何気なくその右方を見ると道路にアーチがかかってそこに仲通商店街の文字ある。そしてその先には黄色の登り旗に沖縄の文字が。
 「あそこだ。あったぞ」
と元気復活の私に対して拓は
 「あ〜そ〜。」
ともう盛りあがる元気もなくなってしまったようだ。
 初めの予定では食事の店を物色してなんかうまい物を、という予定であったが、拓は、メシはいらない、と言う。正直私も食欲はあまり無い。
 そこで、商店街の入り口にある沖縄物産センターへ。いろいろ目移りする商品ばかりだが、結局はオーソドックスな物を購入。もちろん飲み物も。クーラーの力もあいまって拓も元気が出た様だ。
 店外へ出ればまたくらっとくるようにな暑さだが先ほどとはうって変わった足取りで駅へと向かう。
 「ビールがぬるくなっちゃうな。歩きながら飲んでいいか?」
 「ダメ」
 「なんで?お前だって歩きながら飲んでるじゃん」
 「酒はみっともない」
 良く出来た?息子です。
 5分ほどで浅野駅に着いた。沖縄は目と鼻の先だったのに往復で4kmちょっと、1時間以上も歩いてしまった。
 電車の待ち時間が少しあったのでホームのベンチでオリオンビールをクイーッ。うまい!
JFE前バス停

何倍も大きい道路を止めて

 浅野発が13:07。6分走って浜川崎着。そのわずかな間に拓は眠りに落ちていた。可愛そうだが起こして下車。浜川崎から川崎大師方面の鉄道は貨物しか運んでくれないので仕方が無い。
 ここから道は三つに分かれる。1つは海岸電気軌道と同じルートの産業道路。もう1つはJR貨物線に沿ったルート。そして川崎市電が通っていたルートである。
 初めは貨物線に沿って歩くつもりでいた。その距離約5km。行き交う列車も眺められて楽しそうである。川崎市電ルートは更に海側の道になるのでちょっと大変かもしれない。海岸電気ルートは産業道路でつまらない。だから線路沿いを歩こうと思っていた。
 ところが、歩き出したとたんボワーンと曇っていた空がスカッとしてまたギラギラの日差しが降り注いできた。これは危ないかもしれない。想定外の散策でかなり体力を奪われているところへこの暑さ。そこで予定を変更。JR貨物の浜川崎駅を過ぎた所で線路をくぐり産業道路へ出た。かつてこの道には鉄道が通っていた。市電も通っていた。それに工業地帯の大幹線である。バスが無いはずは無い。
 思惑通り交差点の向こうにバス停が見えた。歩道橋を渡って、さて、と見てみればバス停の名前は「JFE前」。行先には、水江町、塩浜営業所、臨港警察署、蒲田駅が書かれていた。
 さて、どれに乗ろう。臨港警察署行きはどこへ行くのかさっぱり。水江町行きなら市電のルート。蒲田駅行きなら産業道路を進んで京浜急行にぶつかるはずだ。時刻表を見れば次に来るのは塩浜営業所行き。塩浜営業所……。塩浜・・…。あっ、塩浜操車場。国鉄時代にその名の操車場があった。うん。大丈夫。これにしよう。
 10分とは無い待ち時間が長かった。バス停にはなぜか椅子がひとつ。あいにく炎天下であるが拓は平然と座っている。暑くないのか?私は歩道橋下へ避難。
 やがて交差点を曲がって川崎市営バスがやってきた。1歩車内へ入ると二人して「フゥ〜〜」。
 冷房の効いた車内から見る産業道路は全くの別世界に見えた。本当にあそこは暑いのか?歩いても良かったんじゃないか?
 貨物線が産業道路から離れていくとすぐに臨港警察署。あっ、ここか。そのバスに当たらなくて良かった。水江町行きのバスもその近くの交差点を曲がって産業道路から離れたはずだ。
 下車したのは四谷下町。産業道路を更に進んでから海側へと曲がったところである。バスの営業所までいってしまうとだいぶ外れそうなので、乗車の時運転手にに「小島新田へ行くにはどこで降りれば良いか」と聞いて教えられたバス停だ。本当は線路沿いに歩きたかったのだが、親切に京浜急行に1番近いバス停を教えてくれた様だ。降りる時「駅はあちらですよ」と指差して教えてくれたがその指は産業道路の方を指していた。
 炎天下散策の再開である。帰宅してから調べたらバスで約3km移動していた。残りは約2km。しかし、この時はその距離の見当がついていなかった。なにしろバスには7分しか乗っていない。まだ相当距離があるのではなかろうか。そんな不安を顔に出さない様にして、「いつ着くの?」「あとどれくらい?」と聞いてくる拓に「すぐだから」と明るく答え励ましつつ歩いた。
 途中飲み物を買ったり、たわいも無い話をしながら歩いていたらいきなり目の前に踏切りが現れた。京浜急行大師線である。踏切り脇には駅。その名もずばり「産業道路」。大師線の産業道路〜川崎大師は海岸電気軌道の廃線跡を利用して作られたのである。はからずも海岸電気軌道の気持ちをきっちりとたどった事になった。
 駅を前にして熱歩から開放される喜びに満ちた拓に地獄の一言。
「よし、隣の駅まで歩くぞ」
「えっ、何で?この駅から乗ればいいじゃん」
「大師線は隣の小島新田が終点なんだ。だからそこまで行くぞ。終点からきっちり乗ったほうが楽しいだろ」
「まったく。これだからオタクは……」
 結局四谷下町から小島新田までは30分であった。正直、赤い電車の座席に腰を下ろした時は私もほっとした。炎天下の強行軍は終わったのである。いや、その時は終わったと思っていた。電車はあっという間に産業道路を過ぎてわずか4分で川崎大師。駅を降りれば目の前は門前である。
川崎大師

ひっそり門前

 駅前にファーストフード店がある。昼食がまだだったのでまずそれを済ませることにした。時刻はすでに午後2時半である。
 2階に上がると駅がよく見えた。百年以上の歴史を持つ川崎大師駅はすっかり風景に溶け込んでなんともいえないたたずまいを見せている。しかし、この駅も地下化が決まっている。車の邪魔だから、という理由だ。特に先ほどの産業道路。お世話になっておいてこんな事言うのもなんだが、かつては海岸電気軌道を横浜市電を追い出し、そして今度は大師線を埋没させようとしている。
 十分な休憩と栄養水分補給の後は最終目的の大師詣。駅左手の道の入り口には立派な?厄除け門が立ちすでに境内の気配。
 ところがいざその道に入ってみると久寿餅を売る店が軒を並べるばかり。大師様は何処?
 日はいくらか傾いた気もするが、今度も真後ろからの日差しで道のどちら側を選んでも日陰が無い。久寿餅って案外いい値段だなー、とふらふら歩くうちにそれらしい屋根が見えてきた。が、その屋根への入り口が無い。高い塀が延々と続くばかりだ。
「また、間違ってるんじゃないの」と拓。
以前別の寺へ行った時すぐ近くの入り口に気づかずぐるりと一回りした事がある。
 やっと、塀が尽きたところで右へ曲がるとそれらしい入り口があった。両側に店が並んでいて浅草のような雰囲気である。
 並んでいる店のほとんどが名物のアメ売りの店。トントコトントコと威勢良くアメを包丁で切る音が……響いていない。大半がシャッターを閉めて休業だ。旧盆というトップシーズンなのに。
 確かに参道を歩いている人は数えるほどで、開いている店も実演販売をしないのがうなづける。そんな数少ない営業中の店のおばちゃん皆がカモが来たと私達に声をかけ試食品を差し出す。
 しかし、私も拓も手は出さなかった。手にしたが最後買わなければならない、という恐怖感があったからだ。アメ自体は値の張るものでは無いので財布的には何ら問題は無いのだが、正当な日本の夏を凝縮したようなけだるくそして歩き疲れた私達にアメに手を出す気が起こらなかったのである。
 立派な山門をくぐればすぐに本堂。軒先にたくさんの風鈴が吊るされていて、参詣人に少しでも涼しく、という計らいなのだろうが、たまに風鈴がチリンと音を立てる度に生ぬるいを通り越した風が汗を搾り出した。
 疲れなのかご利益なのか、やけに神妙というかおとなしくなってしまった拓が線香の煙を入念に頭にすり込み、そして学業成就のお守りを買って大師参りは終わり。参道のおばちゃんの誘惑を振りきって駅への道へと向きを変えれば今度は太陽が真正面。厄除け門がはるか遠くに陽炎に揺れて立っていた。

 再度赤い電車の中。かくして、海岸電気軌道を巡る旅は終わった。こうして2つの寺を巡ってみるとずいぶんとその様子が違う事がわかった。荘厳な雰囲気の総持寺、物見遊山な川崎大師。古の人もただむやみに寺社巡りをしていたのではなく、このメリハリを楽しんでいたのではなかろうか。故にこの2つを結ぶ鉄道が成り立っていたのであろう。

 川崎駅。午後3時半。後は帰宅するだけ。
 駅名表を見上げた拓が一言
 「鶴見って隣の駅じゃん!!」
 ワハハハハ。定番の一言だー。

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