旧館
************ ж 11 ж 清原宇都宮陸軍航空廠線 ************
栃木県芳賀郡清原村。
1889(明治22)年に誕生し、1954(昭和29)年に宇都宮市に編入されその名を消した、現在の
- 桑島町
- 上籠谷町
- 氷室町
- 鐺山町
- 清原工業団地
- 竹下町
- 清原台
- 道場宿町
- 野高谷町
- 満美穴町
- 刈沼町
- 板戸町
- ゆいの杜(旧、板戸町、刈沼町、満美穴町、野高谷町、道場宿町の各一部)
である。
地形的にはそのほとんどが鬼怒川左岸の台地からなっている。
その大半は農業地域であり、鬼怒川沿いの低地では稲作、台地上では畑作、果樹の栽培が盛んであるが、一部は工業団地として開発され、その中には野球場(清原球場)やサッカー場(グリーンスタジアム)もあって、工場以外への人の流れも多い。
だが、ここへ通じる公共交通はバスしかなく、その本数も少ないため自家用車利用がほとんどで、特に県道64号柳田大橋付近では通勤時間帯の交通渋滞がひどく、大手企業では専用送迎バスを宇都宮駅から運行するなどの対策が行われている。
しかし、各企業や個人の努力では限界があり、それを改善すべく宇都宮駅から清原工業団地、芳賀工業団地を結ぶLRT計画があるが、その効果、実現共にまだ不鮮明である。
そんな清原地区にほんの一時期だけ村を貫く様に鉄道が存在していた。
清原宇都宮陸軍航空廠線。
もしくは清原線、清原飛行場線、鐺山線と書かれているものもある。
名称がはっきりしない事が示すようにその資料は少ないく詳細が不明な点が多い。
解っているのは、清原村松原の鐺山駅からから宝積寺駅までの11.7Kmの路線で、途中駅は無し。1942(昭和17)年開通、1945(昭和20)年廃止。
旅客列車は朝夕2往復。(日曜は3往復)
廃止後は道路に転用され、その遺構は全くと言ってよいほど残っていない。
以上で清原宇都宮陸軍航空廠線の話しは終わりである。
しかし、これではあまりにもなので、もう少しこの清原地区の歴史に触れておこう。
開村時、村内の台地上の部分のほとんどは御領地となっていた。その大半は雑木林等であったのであろう。その中央を2本の道が横切っていた。水戸街道と中の島通りである。
水戸街道は宇都宮から鬼怒川を石井、鐺山の両河岸間で渡し船で渡り(帆掛け舟が使われていた)、鐺山東から星野宮神社下を通って台地上に登って行った。
中の島通りは水戸街道が台地へと登りつめた先から分岐して芳賀へ向かうという形になっていた。
大正時代には御領地のうちの上籠谷地区が農民へ払い下げられた。
しかし、この土地はそもそも水の便が悪く、苦労して開墾しても田畑には向かず、麻を育てるのがせいぜいであったそうである。
時代が昭和になると残っていた水戸街道北側の御領地部分(千波が原)に大きな動きが起こった。
1939(昭和14)年 陸軍が3000haを買収。
1940(昭和15)年 宇都宮陸軍飛行学校を発足。
1941(昭和16)年 宇都宮陸軍航空廠を併設。
またほぼ時を同じくして、1938(昭和13)年に清原農学寮(後の栃木県農業大学)が開校している。
この学校は農林省の指令により芳賀にあった上野原農学寮を県立として移転したものではあるが、(その前身は下延生農学寮。完全なる私立であって上野原への移転はあくまでも経済的なものだそうである) 1922年には官立旧制専門学校の宇都宮高等農林学校(宇都宮大学農学部の前身、場所も現在の宇都宮大学)が出来ており、その至近に更なる農学校を作るのは不自然である。
また、この地は先にも書いたように水の便は悪い。芳賀台地の下の谷筋ですら、唐桶溜なる溜池を作ったうえ、鬼怒川から隧道を用いて水を引かなければならない状態であり、軍も工業用水用に揚水機を設置しなければならない場所である。
更に農学寮敷地内に航空機を爆撃から守るための掩体壕が作られていた事(現存している掩体壕は飛行場との高低差が大きかった為、飛行機を運び入れる事が出来ず部品倉庫として使われていたそうである)、併設されていた栃木県役馬利用指導者養成所における役馬とは農耕運輸馬ではなく軍馬であった事、開校当初の学生たちは農業の勉強ではなく敷地内開墾に明け暮れていた事、戦後農学校でありながら食料事情に非常に乏しかった事、などから邪推するに、この学校は飛行場建設のカモフラージュ的なものでもあったのではないだろうか。(そんな思いをしても米軍には筒抜けで、空襲の際の爆撃場所と使用弾薬の種類及び量などの綿密な作戦計画が出来ていた)
もっとも、1941(昭和16)年9月20日に行われた飛行学校開校式、航空廠開庁式は入場自由で今で言う航空ショーも行われ多くの人でにぎわい、それほど神経質に隠す気があったとは思えない節もある。(ただし、カメラの持ち込みは禁止)
更に当日は混雑対策の為、鐺山十字路より先への車両乗り入れが禁止(その先で自転車も規制されていた)となる旨が式典が行われることと併せて事前に知らされており、多くの人は徒歩で、小学生などは貸し切りバスで訪れたそうである。
宇都宮陸軍航空廠では新製機体の艤装や試運転、整備が行われていた様だが、その機体は宇都宮市鶴田の中島飛行機(現富士重工)で造られた。そして、そこからの部品輸送や燃料輸送の為に敷かれたのが清原宇都宮陸軍航空廠線である。(機体は群馬県太田の中島飛行機でも作られ、新製機体は列車ではなく飛んできた)
ただしその開通は宇都宮陸軍航空廠が出来た翌年の1942(昭和17)年11月と少し遅れている。
着工は同年1月で11.7Kmを1年かからずに完成させた訳だが、それは軍という力によるものに合わせて、その地形が平坦で川も無かった事も大きく寄与しているであろう。
宇都宮鶴田から清原までの鉄路距離は宝積寺経由で約30Km。しかも途中鶴田駅と宝積寺駅でスイッチバックさせなければならない。しかし、直線距離では約10Kmである。
宝積寺から11Kmの線路を敷くのであれば鶴田からまっすぐ敷いてしまっても敷設距離は変わらないのであるが、途中には最大の障害、鬼怒川が流れている。また鬼怒橋を併用軌道にするなどしてクリアしてもたどり着く先は台地の下。その先は到底鉄道が登れる勾配ではない。
また、このルートの場合は鬼怒橋を空襲などで落とされてしまうと飛行場は孤立してしまう。しかし、宝積寺経由であれば東北本線の橋が落とされてもまだ白河方面から入る事が出来る。(箒川橋梁も同時に落としてしまう事など米軍にとっては容易い事であったろうが)
かような次第で開通した路線ではあるが、旅客輸送は朝夕の2往復だけあった。
その時刻は
| 宝積寺発 | 鐺山着 | | 鐺山発 | 宝積寺着 | |
| 7:05 | 7:29 | → | 7:32 | 7:54 | |
| 16:28 | 16:50 | → | 16:55 | 17:17 | 日曜日運転 |
| 18:00 | 18:22 | → | 18:40 | 19:02 | |
となっていた。
ただし日曜日は3往復あったのか、夕方便が繰り上がったのかは不明である。
使用されていた車両はガソリンカーC12型とあるがどの様な車両かは解らない。この形式の車両は駿遠鉄道で使われてたが定員42名の小型車両で、清原宇都宮陸軍航空廠線にも使われていたかはいささか疑問である。ちなみにこの頃はまだディーゼルカーは開発期で安定したものが作られる様になったのは戦後の事である
いずれにせよこの線にあてがわれていたのは2両で、そのうち1両は予備車であったから通常は一両の単行であり人員輸送はいわばおまけ的なものであったであろう。貨物列車に客車が連結されたいわゆる混合列車も無かったようで、工員の多くは周辺に住み(最盛期には2万人が住んでいたそうである)、宇都宮からのバスの便もあった。
なお、末期の一時期には県道10号線鷺ノ谷交差点付近に信号場が設けられたり、輸送人員増加の為ガソリンカーを宇都宮からの客車列車への変更も行われたようである。(信号場のレールが鐺山駅客車留置線増設に転用されたのであろう)
この鉄道は軍の管理下にあり、一般客の利用はできず、地元の人も駅に近づく事すらしなかったそうである。
当然鐺山駅での切符販売は無く、乗車には専用パス等が必要であったであろう。
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清原現旧比較地図 クリックにて拡大表示
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その地元の人でも近づく事がはばかられた軍の敷地は当然のことながら広大であった。
現在の清原工業団地はかつて飛行場部分で、線路跡と工業団地の間の住宅地は軍飛行学校と軍航空廠の建物が建っていた。
更に軍施設は清原地区のみならず現国道123号線の南側、上籠谷及び氷室へと大きく広がっていたのである。
当然、これだけの広さを有するとすれば住民の生活区域と重なる部分が発生し、北部の千波が原の住民は移転させられ、南部の上籠谷、氷室の住民は軍施設に取り囲まれる形となった。
そして、北部を突き抜けていた道は飛行場を迂回するように付替えられたのである。
まずは国道123号線。
この道は本来鬼怒橋を渡った後、鐺山東交差点から旧水戸街道のルートで千波が原を突っ切り今は旧道となっている国道123号線のところまで続いていた。
丘陵を登りきったところにある変形交差点は、軍により作られたY字路と平行する道路と清原宇都宮陸軍航空廠線跡の道路化により形成されたものであり、現在はYの中心部分に道路が作られて「干」の形となっている。そして両方に開いた歩道部分が当初のY部分であり、右の旧道部分はそのまま交差点の先の細道へと少しだけ往時を辿る事が出来る。
更にその先は軍施設(現宅地及び公園)により姿を消しているが栃木県農業大学のトラクター教習所裏付近よりまた辿る事が出来るようになり、荷馬車すれ違い規格の2.7m程の幅の道で国道123号線に合流しているのである。
また、芳賀町と宇都宮を結んでいた道が(現在のそれは県道69号及び県道64号であるが、1970年に柳田大橋が出来るまでは道場宿には流れの部分にだけ人が渡れる程度の橋があるだけで車の通行は出来なかった。ただし軽トラが渡っている旧橋の写真があるので、後年には軽車両程度は通れるように改良されていたのであろう)変形交差点の先で分岐していたが、この道も中の島までが国道123号線の清原東小前交差点より分岐する現県道154号線へと付け替えられた。
これらの道は付替え部分は殺風景に感じらるが、古来の部分に入ると石仏や神社が現れ昔からの往来が感じられる道となる。その殺風景さを補う為にか国道123号線付替道路沿いに植えられた桜は、立派な桜並木となり春にもなれば大いに和ませてくれたのであるが、拡幅により失われてしまったのは残念である。
この2本の主要道以外にもいく本かの道が千波が原を横切っていたが、それらは五味内から飛行場を迂回する1本の道に集約された。その道は工業団地造成に伴って中間部が姿を消したが、グリーンスタジアムまでは拡幅される事も無くほぼ当時のままの姿で残っている。
一方南部は飛行機を分散させておく為の場所となっており、建物的な物は無く広い誘導路があるだけで道の付替えは行われず、地元の人はその誘導路に囲まれる様に暮らし、農業を行っていた。
当然、その人達は軍施設である誘導路を横切らなければ生活できない訳で、北部の近づく事すらはばかられる様な雰囲気とは違って、空腹の兵(飛行場建設にたずさわった朝鮮人?)が夜付近の民家に食べ物を乞いに来たり、掩体壕まで持っていって、お礼にと子供が戦闘機に載せてもらったりと、交流があった様である。このあたりの話しは詩人高田太郎の随筆「掩体壕の萩」に書かれているので一読されると良いであろう。
南部施設はこの誘導路とそれに付帯する掩体壕及び掩体土塁が主であった。
しかし、その規模は大きく、範囲もさることながら、配備されていた百式重爆「呑龍」が十分に動ける幅の誘導路と、格納出来るだけの大きさの掩体土塁が数多く存在した。ちなみに呑龍の大きさは幅20.42m、全長16.81mであった。なので誘導路の幅は現在の国道123号線の4車線区間より広いものであったのであろう。無論砂利道ではあるが。
南部の掩体土塁は大きなもので、一方北部の滑走路沿いにあった掩体土塁はそれよりも小ぶりなものであった。
北部滑走路沿いの物は空襲に対して緊急発進が出来るよう戦闘機(4式疾風)が置かれ、南部は計画的に発進させる爆撃機が置かれたからであろう。なお、南部誘導路からも戦闘機がスクランブル発進する事があったそうである。
1945(昭和20)年、終戦。清原宇都宮陸軍航空廠線もその役割を終えた。11月には列車輸送が無くなり、1950(昭和25)年にその線路は真岡への延伸の請願もむなしく剥がされた。
レール撤去作業は急ピッチで進められたようで、付近の農家の人が一日の仕事を終えて帰宅する時もまだ作業は行われていた。話しを伺った当時嫁入りしたばかりの人は真っ暗な農道を帰るのが怖くてまだ人夫が働いていた線路跡を通って帰ったそうである。
軍施設は1948(昭和23)年までアメリカ軍の管理下に置かれ、その後民間へと払い下げられた。
そのうち、軍建物があったあたりは宅地となり、滑走路付近は農地となったが、滑走路は比較的後まで残っていて、1960(昭和35)年にオートレースが行われている。
そして、1971(昭和46)年から清原工業団地の用地取得が始まり、1973(昭和48)年造成開始、1974(昭和49)年分譲という流れの中で軍遺構は失われ今ではここにかつて軍施設があった事を思わせる物は何も残っていない。
と、一見すると感じるが、つぶさに見ると多くの遺構が現存しているのである。
しっかりと形を残している物は農業大学内の掩体壕(2012年栃木土木遺産認定)であるが、掩体土塁もその近くとグリーンスタジアム付近に残っている。
建物も当時の形を残したものがあり、現在民家の倉庫として使われている工場ガスボンベ室は壁のコンクリートが30cmもの厚さを持っている。また、木造建物も1棟が分割移転されかろうじてその姿をとどめている。
建物基礎はその代表が鐺山駅跡であろう。
その延長は約140mで、幅は約2.2m、柱跡と雨どい排水管跡があり、中央南側は一部広くなっている駅舎跡で柱基礎が残されている。
ホーム跡は現道よりかなり高い所にあるが、これは道路が拡幅時に掘り下げられたためで、それ以前の未舗装時の構内跡地は細い道でそれ以外の敷地は隣接民家の家庭菜園になっていたり物置が置かれていたそうである。
周辺民家の庭や空き地がコンクリートで覆われている所が多く見られるが、それは軍建物のコンクリート土間であり、柱基礎や周囲の壁の基礎が残っている。
また、格納庫跡にはかまぼこ屋根を支えた巨大な基礎も残されている。
かように多くの遺構が残っているのは戦争遺産として残されているからではなく、払下げが上物を撤去しただけの状態であったため個人でのその撤去は難しく、結果残されている物なのである。格納庫の扉基礎を撤去した時は「クジラの骨くらい大きなコンクリートの塊が出た」そうである。(ただし鉄筋はほとんど入っていなかった)建物が残された所では個人では解体しようにもなかなか手に負えない物に対して国が取り壊さなかったのに固定資産税を取られるのは納得がいかない、という話も聞いた。
中の島の切通しには地下壕があったらしいが、道路拡幅の際に埋められてしまった。ただしそれは入口だけで法面擁壁の裏にはまだ残っている可能性がある。
現在は静かな住宅地として、県内有数の工業団地として、果樹栽培の地として発展してきた清原地区ではあるが、その過去を知る人は少ない様である。また、最近は大手の不動産会社による宅地整理が行われている所もあり、そのような場所はその力をもってして遺構は撤去されている。かつてあった航空廠の門柱や大きくその存在を誇示していた給水塔も姿を消した。やがてはこれらの多くが姿を消すであろう。そうなる前に一度訪れてみてはいかがであろうか。ただしこれらの遺構は民有地内にあるので無断での立ち入りや撮影は謹んで頂きたい。
清原遺構スナップ
「国道123号線清原付近」で旧道として紹介した写真。
実はこれが軍付け替え道路で、右手に分岐している道が旧々道の水戸街道でした。
「栃木県道154号線」で工業団地周りの道と分岐地点として紹介した写真。
実は直進する県道154号線は軍付け替え道路で(拡幅されています)、
分岐する工業団地沿いの道は少し先から飛行場道路でした。
かつてはこの場所に千波が原のJRバス停があり、かろうじて昔の名を残していたのですが、
いつの間にかなくなってしまいました。
「国道123号線 鐺山交差点付近」で変な形の交差点と紹介した写真。
実は手前で交差している道が清原宇都宮陸軍航空廠線跡で、
その先の突き当たりで交わる道と交差点先の左へ逸れている歩道が軍による道、
右に逸れている歩道が旧水戸街道でした。
鐺山跡。
道路は拡幅時に1.5メートル程掘り下げられ、
プラットホーム上には家が建っています。
鐺山駅舎跡。
葛に覆われているが、その下はコンクリートで柱跡等が残っています。
家々はそのコンクリートの上に。
工場で使うガスや酸素のボンベ室だった建物。
壁厚は30�p程もありますが、さしもの頑丈な建物も先の震災で一部にひびが入ってしまいました。
軍のものであったらしい木造の建物。
分割移築されています。もう半分は廃線跡際に。
軍建物のコンクリート土間と柱跡。
このようなコンクリート敷きが、空き地や駐車場、民家などのいたるところに見られます。
建物外周基礎跡。
コンクリート土間の周囲には外壁の基礎が残されている所も多数あります。
ここはフェンス基礎に転用されていました。
格納庫基礎。
かまぼこ型の格納庫の屋根を支えていた基礎。
てっぺん付近から突き出しているアンカーは細く頼りなさそう。
巨大でも鉄筋はほとんど入っていないそうです。
旧水戸街道。
最初の写真から少し入った所。
車一台分の幅しかない道です。
軍付け替え道路。
五味内からグリーンスタジアムの間。
やはり車一台分の幅しかありませんでした。
グリーンスタジアム付近の掩体土塁。
栃木農業大学近くのものより小ぶりです。土塁の上から撮りました。
北寄りのものは道路からも見えます。でも他のはやぶの中。
上籠谷の誘導路。
農業大学近くの掩体土塁前の誘導路跡です。
かつては大型爆撃機が悠々と通ったであろう道も
今は狭い市道となって通る人もなく忘れ去られようとしています。
清原宇都宮陸軍航空廠線とうたっておきながらそのほとんどが軍関連の話しになってしまったので、廃線跡をたどった動画でお茶を濁したいと思います。
ご覧になっていただければ解るように鉄道の痕跡は鐺山駅跡以外はありません。また、線路跡の道路もみな拡幅され綺麗になっているのでその面影をしのぶ事も難しいと思われますが、かつて鉄道が通っていたという雰囲気だけでも感じて頂ければ幸いです。
なお画質がよろしくありませんがなにとぞご容赦を。
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