旧館

************ ж 8 ж 溝の口************

今回は資料に基づかない私の記憶と聞いた話からなるものです。
ですから多分に違っているところもあると思われますのでご指摘いただければ幸いです。


 ↑ 溝の口だいたいこんなんだったかな地図 画像クリックで昔と今を交互に表示します。

 年末になると両親の実家から米などの荷物が届いた。しかし、それは宅配ではない。駅から、荷物が着いたので取りに来る様に、という通知が来るのである。昭和40年代の事である。
 当時車を持っている家は少なかった。我が家もしかりで、バスで20分ほどの国鉄武蔵溝ノ口駅へ受け取りに行く。
 乗るのは「溝の口」または「溝の口営業所」行き。バスは下作延住宅前の先で2つのルートに分かれる。
 多くは左折して南武線を渡り「駅入り口」、「しまや前」を経由して駅前へ。少ない本数が直進して「溝の口駅裏」を経由して営業所へ。駅前を通るバスにも駅止まりでは無く営業所行きがあった。営業所は第3京浜の下にある。
 左折したバスは「駅入り口」までは快調に進むがその先でたいてい渋滞に捕まった。だから駅へ急ぐ人は「駅入り口」で降りて徒歩で駅に向かった。朝の通勤時間にはバスそのものが「駅入り口」止まりとなって通勤客の全てが歩かされた。
 旧246号線、大山街道をのろのろ進んで右折した先が「溝の口しまや前」。その名の通り「しまや家具店」の前にある。渋滞に痺れを切らした人やダイエー(旧サンコー)等がある繁華街へ行く人はここで降りた。
 田園都市線の下をくぐって目の前の「溝の口」バス停までがまた時間がかかる。降車専用のバス停は駅のわずか手前、銀行の前の道路端でターミナルではない。時には渋滞に痺れを切らした運転手が手前の交差店あたりで「終点です」とドアを開けてしまうこともあった。この辺りの川崎市営バスにワンマンカーが導入されたのは昭和43年頃でそれ以前はしっかりと車掌さんが乗っており、ボンネットバスも走っていた。料金は大人30円、子供15円であった。
 国鉄武蔵溝の口駅はおせじにも立派とは言えない平屋造りで改札口のすぐ脇に券売機、その隣がみどりの窓口、小荷物は駅舎はずれの、トラックでも通ったのであろうか、線路脇へと入る道の途中のようなところにあって時期には多くの人が並んでいた。受け取るのはいずれも荒縄でくくられた1斗缶やダンボールであった。
 駅は改札を入ると右手が1番線川崎方面。狭いホームが田園都市線の高架下を過ぎた所まで伸びていた。
 立川方面のホームは改札左手の跨線橋を渡った向かい側。上りホームとは完全にずれていて、跨線橋が出来る以前は改札正面から踏み切りを渡って行った。
 ホームは2番線と3番線。2番線は立川方面で3番線は川崎から武蔵溝ノ口止まりの列車が折り返しに使っていた。(一部2番線発車の川崎行きもあった)
 その向こうは貨物線でコンテナなどの大口貨物用。線路脇までトラックが入れる様に駅舎側と違って広々としていた。小荷物を積んだ貨車は小荷物窓口裏側の側線に入った。駅入り口は北側のみで、南口は無し。
 このホームの川崎よりに立つと線路が正面に見えた。下り線は川崎から来ると素直に2手に分かれて2、3番線に入ったが、上り線はそれに合わせるようにグニャリと曲がっていた。もしかすると単線時代のなごりで、そもそもは下り線とこちらのホームしかなく、複線化の際に隣に線路を敷いた為曲がってしまったのかもしれない。1番線はその時に出来たと考えられるが、すると駅舎とホームの間にはずいぶんと間隔があった事になる。
 なお、トイレは駅舎と跨線橋の間の狭い通路を入った所にあり水洗ではあったが汚くそして狭かった。


武蔵溝ノ口駅のこんなんだったかな図
駅舎裏の引込み線は無かった可能性大

 溝の口へは小荷物の受け取りだけでなく買い物にもよく出掛けた。主に衣料だ。当時(昭和40〜50年代)溝の口周辺では日々の食料を扱う店はあったものの、衣料品を扱う店は少なかった。だからそれこそ下着からお出かけ用の「いい服」まで買いに出掛けた。その他にもテレビなどの電化製品も溝の口へ買いに行った。地元にも電気屋があったがそれは修理専門に利用していて、故障した時に呼ぶと工具箱を持参してテスターとハンダゴテでテレビを修理していった。現在の様に修理にメーカーへ送って修理見積もりをとるなんて事は無い。その日その場で解決である。
 さて、溝の口の買い物であるが、それはたいていダイエー、長崎屋などの大手スーパーであった。
 バスを降りると駅正面の商店街を進む。パチンコ屋や時計店など子供心を全く震わせない個人商店が続くが、その中に気になる店が2軒。
 1つはペットショップ。もっとも当時は小鳥屋と呼んでいたような気がする。その名の通り扱っていたのはメインが十姉妹やインコなどの小鳥で、それともう1つの主たるものが金魚であった。小鳥は店の奥、金魚は店先で売られていた。その他にはミドリガメやモルモットがせいぜいで、犬や猫は雑種のような物がいるかいないかであった。
 でもその店が楽しみであった。溝の口へ行った時は必ず寄った。見るだけであったが。しかも「いい子にしていたら帰りに寄るから」という条件つきであった。
 もう1つの店が「味の大関」。基本的には飲み屋である。
 なぜこの店が気になったかと言うと、夏の盛りなどに店先でウナギをさばいていたからである。
 それが行われている時は一目で解かる。人だかりが出来ていたからだ。
 その人垣をくぐって前に出ると板前さんが大きな俎板の上に生きたウナギの頭を千枚通しで固定してうねり苦しむニョロニョロを、ビッビビビ、と早業でさいていく。今の子供たちがこの風景を見たら「ウゲー」であろう。しかし、このような光景は魚屋で普通に見られた。ただしそれは死んでいる魚。生きた魚をさばく姿は珍しかった。だから子供に限らず大人の多くも足を止めて人垣となっていたのである。
 買い物のメインはその先のダイエーもしくは長崎屋。ダイエーは道を挟んだ左右にあって左は食品や日用品。右が衣料品、玩具、家具等であった。したがって左側の建物に入ることはまず無く、もっぱら右の建物を利用していた。ただし、誕生日には左側。ケーキも溝の口まで来ないと手に入らなかった。上の方の階の隅には生ジュースを売るところがあってミキサーでぐるぐる回されているものや、機械の上部についた半透明のドームにジュースが吹きあがっているのを見てねだった事が度々だったが、それはついにはたせずに。
 ダイエーの隣は長崎屋。やはり主に衣料品を買った。その向かい、ダイエーの建物にくっ付いて小さな花屋(先日訪れたら健在だった)。道を挟んだ隣は電気屋で学生時代はカセットテープなどを買うのに利用した。
 更に進むとイトーヨーカドー。ここも2つの建物からなっていて、手前が衣料品、奥が生活品であった。
 この辺りまで来ると子供たちはかなりの疲労を覚えていたが、母親は「何か安くて良いものはないか」と元気いっぱい。そんな子供たちの気を引くものがそこにはあって、それは衣料品店の通路(生活洋品店へと続く)沿いにあった、軽食コーナー。2段重ねで上にバターの乗ったホットケーキ。でもそれも「通路のすぐ脇で汚い」とかなう事はなかった。
 2つのイトーヨーカドーの間を左に入ると高津中央病院。この辺りで1番大きな病院で、風邪程度は近くの町医者ですませたが、出産や手術を伴う病気、風邪でも症状が重いときに利用した。
 中央病院の駅寄りには十字屋。青果を中心とした安売り店であるが、年末にはお節等も扱い大変混雑していた。その近くを流れていたのがニケ領用水。もっとも流れていたと言うよりドロッと淀んで異臭を放っていた、と言える物であったが、田園都市線の高架下辺りに錆びた鉄橋の残骸が架かっていた。高架になる前の大井町線時代の名残である。(これは近年まで残っていたらしい)
武蔵溝ノ口駅前こんなんだったかな図
 さて、散々振り回された帰りは駅前からバス。もちろん小鳥屋に立ち寄ってから。
 バス乗り場は国鉄駅前。1番から3番まであり方面別になっていた。
 なら解かりやすかったのだが、実はバス運行の都合なのかどのバス停から出るかは時刻表を見なければ解からなかった。
 1番乗り場は駅前。改札口を出るとすぐ目の前。上り電車の先頭車から降りれば30歩と歩かない。ただし方面別、東急と川崎市営の幾つかのバス停が並んでいる。
 2番乗り場は鉄道駅で言えば頭端式。川崎市営バス専用。溝の口駅前止まりのバスがバックで入って来て折り返していく。ここがメインのバス停であり定期券売場と大きな時刻表があった。バスが3台入れた。
 3番乗り場は南部方面行き。市営と東急のバス停があったが東急のバスが多かったように思う。
 その他にもう1つ、駅から少しずれたところにもバス停。4番乗り場と付いていたか記憶にないが東急のバス停だった様に思う。渋谷行きのバスもここから出ていたかもしれない。
−−−1度だけ渋谷から溝の口までバスに乗ったことがある。大昔で夜間だったのでほとんど記憶に無いが渋滞の246号線を延々と走ってずいぶんと時間がかかった様に思える。おそらく玉電(渋谷〜二子玉川)が廃止になった直後であろう。その頃私の住んでいた所と渋谷の縁は遠く、日常的な物は溝の口で、デパートは川崎の「さいかや」であった。(二子玉川の高島屋は高級過ぎたし渋谷はなおさら、自由が丘で乗り換えてまで行くことは稀であった)川崎までは南武線の快速をよく利用したがこの電車は武蔵中原で各停を追い越してしまい、しかも登戸止まりと、停車駅の武蔵小杉、武蔵溝ノ口、登戸以外の利用者には使いづらく長くは運転されなかった。−−−
 さて私の利用したバスは(溝15系統)はこの1〜3のバス停どれかから発車した。時刻表には1、2、3の数字が添付されていてそのバス停へ向かったのである。
 1番からは営業所始発のバス。2番は溝の口駅始発。3番は数は少なかったが駅裏経由であった。1番、2番から出たバスは素直に北部方面に向かうが駅裏経由はいったん南に向かってすぐ先の南武線踏切を渡り自転車屋の角をぎりぎりで曲がって駅裏を通るものであった。
 私は2番乗り場から出るバスが好きであった。いかにも地方のバス乗り場という雰囲気も好きだったのであろうがそれ以上に楽しみな物があった。
 2番乗り場で時間があると列に並んでいる親に「見に行ってもいい?」と出掛けていくのが3番乗り場の前にある金太郎焼き。いわゆる今川焼きである。
 これの何が面白かったかと言うと、そこは焼きがオートメーションになっていて、コンベア状の焼型が流れていくと自動で生地が入れられ、餡が入れられ、上に生地をかけて、少し焼いて、蓋が閉まり、また焼いて、ひっくり返されて、焼かれて、蓋が開けられて、と次々に金太郎焼き(今川焼き)が出来ていく様が面白かったのである。店の人は焼きあがったものを取り出すのと販売、たまに生地や餡の補充だけ。ガラス張りの店舗にはたいてい幾人かの子供が貼りついていた。いつも見るだけであったが、まれに1個2個買ってもらってバスの中で食べるのも、数個買って家でたべるのも楽しかった。
東急溝の口駅前こんなんだったかな図
東急溝の口駅こんなんだったかな図
 バスの本数は多くは無かった。時には発車したばかり、まだバスのお尻がそこに見えているという事もあった。そんな時は徒歩で片町まで行くとそのバスに乗れた。駅から片町までは渋滞がひどく、十分に追いつけたのである。朝夕は駅前発が少なく、片町始発が多かったので最初から片町へ向かう事も多かった。(駅発のバスは全て片町経由で駅入り口は上り専用)
 2番乗り場の先で駅に向かって、歩行者信号が青になると音楽が鳴る(通りゃんせだったかな?それともお馬の親子)横断歩道を渡るとすぐ右手がヤストモ商店街。アーケード付きの通路を挟んで両側に小店舗が並ぶ。と言うより1つの建物の中央に通路があるという感じ。
 ヤストモ商店街と平行して南武線上りホーム脇に道があったが、そちらは幅半分が自転車置き場と化していて決して通りやすい道ではなかった。
 入るとすぐが本屋と時計屋だった様に思う。その先には写真屋、宝石店、飲食店、玩具屋など両側合わせて20店舗ほどあったであろうか。幅3mくらいの通路はいつも混んでいたが雨の日は更にそれがひどくなった。普段は外を通る人も傘をささずにすむ商店街を通ったからである。
 どの店に寄る事も無かったが(本屋と写真屋は利用したことがある。食堂に入ったような気もする)ここを通るのはなんだか楽しかった。
 ヤストモ商店街を出ると東急溝の口駅前広場。三角形をしたなんとも無意味的な広場で中央にパラソル付きテーブルがいくつか置かれていた(かな?)。無論バスもタクシーも入ってこない単なる広場である。
 この中途ハンパな広場は田園都市線が大井町線と名乗って溝の口止まりであった頃駅があった場所であるらしい。二子玉川を出た電車は現在の鉄橋と平行する二子橋を車と一緒に渡って(二子橋の幅がハンパなのはそのせいである)そこからは地上をゴロゴロ走って溝の口に着いた。鉄橋が出来てから二子新地は高架となり、長津田延長のため溝ノ口も高架となったが、高津駅だけはずいぶん後まで地上駅のままであった。ちなみに黎明期では渋谷からの玉電が溝の口まで来ており、その頃はこの広場辺りで大きく向きを変えてヤストモ商店街のあたり、南武線と平行して駅があったらしい。
 広場に面して一軒の食堂があった。狭い階段を上がると食券売場があって硬券の切符のような物を渡してくれる。席に着くとウェイトレスが半分ちぎっていく。この食堂はパチンコ屋の上にあり「2階の食堂」と呼んでよく利用した。お気に入りの席は南の窓際。南武線のホームが見える。「ラーメンが来るのと電車が来るのどっちが早いかなー」。注文した物が来ると食券の残り半分が持っていかれる。食べている最中茶色い電車が来ると箸が止まる。
 東急溝の口駅は南武線武蔵溝ノ口駅に比べると各段に立派な駅であった。改札口の左側に切符売場。正面の大階段を上るとトイレと隣り合って蕎麦屋があった。左に曲がって階段を昇り更にUターンする様にもう一度階段を昇ってやっとホーム。かように高い位置にホームがあるのは隣の梶ヶ谷駅が多摩丘陵の上(それでも谷底)にあるからだが、私は南武線が高架になってもいいように高くなっているのだと思っていた。
 改札口の右側は東急ストアの入り口。この2階には溝の口最大の本屋文教堂書店があり書店の奥の階段を降りるとバス通り。
 東急の駅と南武線のホームに挟まれた狭い通路を進むと西口商店街。
再開発と火災で
ほんの一部だけが残る西口商店街

踏切は階段だけが残っていた
 こちらはヤストモ商店街と違って小店舗が並んだ通路の上に屋根がある感じ。建物もひどい物ははっきり言ってバラック。通路は暗く狭くそしてどぶのすえた臭いがしていた。この臭いは通路の中央にある溝からにおってくる物と思っていたが、実はこれらの建物の半分が用水路の上に建てられていたものだったと近年知った。戦後の闇市時代に違法に建てられた物がそのままになっていたらしい。
 この商店街は庶民の台所的活気があった。魚屋、肉屋、八百屋全て量り売り。糸屋、古本屋、品物いっぱいで人の入る余地があまり無い。食堂、10人くらいで満員。飲み屋、店先で焼き鳥を焼いて客は通路で立ち飲み。1番はずれ、ボウリング場入り口前の靴屋で売っていた表面に竹を張った下駄のはき心地が良かった。
 商店街は南武線の線路沿いからくいっと曲がって東急の駅沿いにバス通りまで。駅入り口から駅に向かう人もここを通る。
 片町へ向かうには商店街を入ってすぐのところにあった踏切を渡る。ここはどぶに蓋が無く臭いが一段ときつく、のぞくとドロットした水の底にたまったヘドロの上に赤虫がいっぱいいた。
 この踏切ではめったに止められることは無かったが、たまに長い時間待たされることもあった。それは貨物の入れ替えの時。踏切が閉まり駅の方を見やると茶色の機関車がのそのそとこちらへ向かってくる。電車ならさっと通り過ぎてしまうが貨物は遅い。そしてやっと来たかと思うと、踏切の手前で止まって「ヘヘッ」と人を馬鹿にするような警笛を鳴らして後ずさりして行ってしまうのである。結局列車が1本も通過しないまま、機関車が駅に収まると踏切が開く。要領を得た大人は機関車が止まったところでその先にあるバス通りの踏切を見る。電車が来るときは遮断機が閉まり、踏切警手が白旗を振っている。この白旗が無ければ大人達は遮断機をくぐっていく。
 踏切を渡ってまた狭い通路を通り裏通りに出た左側が東急溝の口駅南口。こちらは利用者が少なくいつもひっそりとしていた。駅前は閑静な住宅街。商店らしき物は谷風呂店という風呂ガマの店が目立つくらい。目前の崖に大きな看板がかかっていた。一歩裏道へ入れば駅北側とは大違い。電車の音は聞こえるが目の前の駅はとても遠い。
 片町バス停は駅前と違って広々としたところ。もっとも、特にターミナルがあるわけではなく道路の片隅なのだが、その広い道がすぐにどんずまりとなるのでバス停の為の道のようだ。その突き当たりにこの辺初であろうコンビニがあった。しっかりと午前7時から午後11時までの営業。
 バス停に着くとすぐに先ほど駅前で逃したバスがやってくる。もちろん駅前で乗客を乗せているので座ることは出来ない。暑い時は天井の換気口の下に立つ。2本のレバーを「開く」と「晴れ」に位置にすれば走り出したとたんビュービューと風が吹きこむが誰も文句を言う人はいない。天井に開いた穴からは青空が見えた。

先日実家に帰った時溝の口駅で撮ったスナップ写真を見つけました。
昭和46年10月30日に2番線(立川方面)で撮られたものです。
この時すでに貨物線の線路は剥がされてホームには看板が立っていました。
ですので、本文中の駅舎裏に貨物列車が入った記憶と駅の図中の引き込み線はどこかの駅と思い違いをしていたようです。


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