両毛線には昭和20〜40年代頃だけ存在した駅が有る。もちろんその様にひとときだけ設置されて消えていった駅は珍しくないが、
両毛線においてのそれは実に11駅。1つの路線でこれだけ多数に有るのは特異な事であろう。
設備はいずれも片面ホームが線路脇にあるだけの無人駅で、ホーム長は3両編成が停まれる程度、待合室を設けているところもあったがそれが全てにあったかどうかは判らない。 また、これらの駅は全ての列車が停車していた訳ではなく、気動車列車の一部が停車したのみでSL牽引の客車列車をはじめ多くの列車が停まらないものであった。 ちなみに、両毛線には昭和25年6月に気動車41500形が3両配備されたのを始めとして、翌年2両増備により小山〜高崎で気動車の直通運転が行われ、昭和29年には45000形(キハ17)が配備されている。 両毛線での小駅の設置には地元からの強い要望による所が多かった。 昭和26年8月29日には足利市において西足利駅設置意見書が出されている。 これは東足利等最初の駅が開業する直前のことでは有るが、東側に駅が出来るのであれば是非西側にも、という半分悔しがりのことでもあった。 また、東前橋駅は、駅の設置を望んでいた木瀬村が前橋市との合併を条件に新設されたもので、前橋市が150万円を出資してホームと待合室を作った。 しかし、これらの地元の強い要望に答える形で設置された割には停車する列車が少なすぎた。 その為、昭和28年7月には佐野市において、両毛線気動車増備の陳情書が出されている。 それによると、「気動車停留所も運行回数少なき為利用価値甚だしの声は常に耳にするところ」、とあり、1日2.5往復の停車では(昭和27年4月の時刻表によると5往復の停車があるのだが)通勤通学の使物にはならないので、45000形気動車を集中配置して、単車(1両編成で運転される列車)を2両に、また6両の蒸気機関車牽引列車も4両の気動車列車にして停車回数を増やして欲しい、との事であった。 しかし、設置から休止に至る間、両毛線の列車本数は増えたものの、小駅に停車する列車は5本程度(小山〜桐生において。桐生〜新前橋はもう少し本数多し)と変化がなかった。
しかし、各地元との折り合いがつかず、廃止ではなく休止扱いにされる事となった。 国鉄としては3桁にも満たない乗降人数の駅は廃止したいところではあったが、利用しにくいダイヤに加えて地元申請より採算が取れるとして設置した駅という事で廃止を強行できなかったのであろう。 昭和40年11月14日に電化複線化工事起工。 昭和41年12月20日、小野寺と犬伏が複線化工事の為一足早く営業休止。犬伏駅近隣では工業団地が作られつつあったが、この休止は進出した企業や誘致関係者にとっては痛手となった。 昭和42年9月1日、東前橋が同様の理由により営業休止。 これらの3駅はホームのあった場所が複線化により線路となってしまいその姿形どころか用地すらないのに営業休止であった。 また、その他の現存する駅でもホームの延長や嵩上げが行われた。電化以前に富田駅で降りたことがあるが、SLのすぐ後ろに連結されていた車両が停まったところにはホームが無く、工事中の積み上げられた砂利の上に飛び降りた。 昭和43年7月19日、岩舟〜佐野複線化完成。 同8月8日、駒形〜前橋複線化完成。 8月16日には電化も完成して19日より電車の、9月15日からは電気機関車の訓練運転が始まった。 そして10月1日より電車営業となり、残りの小駅の全てが営業休止となった。 ちなみにCTCも同時に使用開始となっている。 この電化により小山〜高崎の所要時間は2:20(気動車列車)から1:45へ、快速は1:50から1:30へと短縮された。(SL列車と小駅停車列車の所要時間は2:40であった) 休止後一部駅周辺では宅地化などで需要が見込まれるであろう状態にもなったが、結局復活する事も無く昭和62年4月1日国鉄分割民営化と同時に正式に廃止となった。なお三重だけは昭和59年4月1日に廃止となっている。 ちなみに、平成11年3月12日には前橋大島駅が開業しているがこれは東前橋駅とほぼ同じ位置であり唯一の復活といえるかもしれない。 参考までに、すぐ隣の水戸線にある小田林駅(左画像)は昭和30年4月1日の開業で両毛線の小駅に似たものであるが、水戸線電化工事を乗り越えて多少ホーム延長がなされているものの一部列車のみ停車という形態のまま今なお現役で活躍している。両毛線の小駅もこの様な感じであったのであろう。
(列車本数時刻はねもねも様にご協力頂きました。)
それでも時刻表や町の広報には当分休止と書かれていた。
現在周りは住宅地。
踏切脇に立つ古枕木の柵様の物は休止当時のものであろうか。
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