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************ ж 5 ж 野岩羽鉄道(2) 野岩鉄道−会津鬼怒川線 ************


路線バス廃止の案内  鬼怒川温泉 1986.10.6

開業前試乗会風景  新藤原 1986.10.6

開業日の新藤原駅前  1986.10.9

開業日の湯西川温泉駅前  1986.10.9

開業日の湯西川温泉駅前にて  1986.10.9

開業日の中三依駅前  1986.10.9

悲願80年   下野上三依駅付近  1986.10.9

 高校生になり地理の教材として地図帳を手にした時である。
 それは日本の部分が1/4、世界が1/3、残りが資料となっていて、生徒の目を世界に向けさせようとする物であったが、私の目は国内部分に釘づけとなった。そこには津々浦々までと言って良いほどに、国鉄予定線が書き込まれていたからである。
 中でも特に目を引かれた幾本かの路線のうちの一つに野岩線があった。
 その予定線は片方が国鉄会津線につながっているものの、もう片方は私鉄の東武鉄道、新藤原につながっていた。
 国鉄として開業するのであればこれではあまりにも中途半端である。そこで、新藤原〜下今市は国鉄線になり下今市〜今市に路線ができるのであろうか、それとも新線を今市まで建設するのであろうか、いったいどんな路線になるのだろう、と夢を膨らませていたのである。
 しかし、その頃には国鉄の赤字が膨らみきっていてその存続自体が問われる時代へと進んでおり、地図を手にした1年後の昭和55年12月に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(通称、国鉄再建法)が制定された。この法律によって、東北、上越新幹線等の幹線を除くほとんどの建設中の路線で工事が凍結され、地図に描かれた多くの国鉄予定線がそのまま幻の路線となってしまったのである。
 国鉄野岩線も例外ではなく、その40%まで建設が進んでいながら夢と消えてしまうかに思われた。が、そこに救いの手が差し伸べられた。国からの第3セクター化打診である。
 栃木、福島県知事は即座にそれを受け昭和56年「野岩鉄道株式会社」を創立。翌年中止されていた工事も再開され、昭和61年10月 9日ついに開業となったのであった。
 私が始めて野岩鉄道を目にしたのは工事再開直後の昭和57年3月、東武鉄道鬼怒川温泉駅から国鉄会津線に乗り継ぐべく会津乗合バスに揺られている時であった。
 全線30.7kmの内の57%がトンネルの為バスの窓から見える鉄路はわずかであったが、いつくかの橋梁などが見て取れた。
 しかし、それらは茶色に塗られていたせいか、まるで野ざらしの為に錆びついてしまっているようにも見え、また橋梁の前後ができていなくてぽつんと立っている様や、会津滝ノ原(現、会津高原)駅手前の築堤の亡羊としたたたずまいからはとても3年後の開業は無理なのでは無いかと思われた。(会社設立当初の開業予定は昭和60年)
 ところがその後の工事の進展は華々しく、予定より1年遅れはしたものの、見事に、しかも第3セクターとしては初の電化路線として開業の日を迎えたのであった。
 それは私が野岩線を始めて地図で知り、その開業を夢に見てから9年もの歳月が経ってからのことであり、その日は「ついに待ち望んでいた日が来た」という嬉しい気持ちで祝賀に参加させてもらったのだが、実は私の周りで涙を流していた人たちは9年どころか80年もその開通を待ち望んでいた人たちなのであった。

野岩鉄道の歴史は明治25年(1892年)に発布された鉄道敷設法に始まる。
 もっともこの時点においてはまだ野岩鉄道の前身、野岩羽鉄道は盛り込まれていなかった。
 この法律に盛り込まれていたのは野岩鉄道の胚芽とも言える新潟〜新津〜会津若松〜白河の路線であり、これはすでに開通していた東北本線と接続して、東京〜新潟間を結ぶ目的の物であった。
 当時の技術では、東京〜新潟間において、上越線では谷川岳を越える事ができず、信越線でも碓氷峠越えや信濃川の渡河が難しく東北本線から新潟を目指すのが妥当とされたからである。
 しかし、会津若松と白河の間には山地がありそれが工事及び輸送のネックになるとされ、それならば比較的平坦でかつ途中の人工もある程度多い今市へと結んだ方が良かろう、という事になり、かくして野岩鉄道は東京と新潟を結ぶ「野岩越」鉄道として建設される事になったのである。
 ところが一旦はさたやみになっていた新潟〜東北本線の鉄道が白河ではなく郡山を接続駅として新たに起され順調に工事が進むと野岩越鉄道は新潟との連絡使命を失ってしまい、単に野州(栃木県)と岩代(会津)を結ぶ鉄道となってしまった。
 そこで、このままでは野岩線の敷設が怪しくなると危惧した建設発起人たちは野岩線沿線の特産物や観光地、水力利用による興業などのメリットを揚げ、更には、その成功のあかつきには喜多方〜米沢間もやります、と具申書を提出した。
 ここに始めて奥羽(米沢)が示され、野岩羽鉄道の構想ができ、明治29年には仮免許まで得たのだが、結局そのまま免許申請期限を過ぎてしまった為明治31年仮免許までも失ってしまったのである。
 その後明治39年(1904年)鉄道国有法が発布されると国による測量も行われたのだがその後の進展は無く大正時代に入って今市ではなく小山や氏家を起点とする誘致運動が起こるものの大正13年(1924年)には建設第1期線から外されてしまった。
 そうこうしているうちに下野電気軌道が今市〜新藤原を開業、昭和10年(1935年)には東武鉄道を経て浅草への直通運転を開始。その後は戦争の時代へと進み野岩線は忘れ去られてしまったのである。
 だが、高度成長期の昭和41年(1966年)になって度重なる地元の請願によりついに野岩線は着工の日を見た。
 それは野州、岩代、奥羽を結ぶ壮大な路線の一部としての再出発であった。
 昭和44年には最大の難所とも言われた県境の山王トンネルも開通した。
 しかし、先にも書いた様に昭和55年には国鉄再建法により工事が凍結。またしても暗雲が立ち込めたのだが、初の第3セクターとして復活。会津までの鉄路としての再々出発となった。
 会社設立時の資本金は3億円で福島県及び関係自治体(52%)、栃木県及び関係自治体(33%)、東武鉄道(7%)、会津乗合自動車、地元銀行が出資した。
 この時点で福島県の出資が多かったのはより東京との結びつきを求める思いが大きかったからであろう。
 鉄道敷設法(別表)には今市〜田島とあったが実際に工事が行われていたのは新藤原〜会津滝ノ原。よって第3セクターとして無償譲渡されるのもこの区間となり、東武鉄道と接続せざるを得ない形となった。
 そこで東武鉄道との相互乗入れ契約を期に電化工事を請求し、その設備も含めた全てが国費で建設された。
 そして昭和61年(1986年)、最初に鉄道敷設方が制定されてから実に94年目にしてようやく開通の運びとなったのである。
 なお、明治25年(1892年)に公布された鉄道敷設法では地方線区の予定線がほとんど記載されておらず、実際に野岩鉄道の路線が記載されたのは大正11年(1922年)の改正鉄道敷設法別表なのだが、それであると64年目の開業となる。
 しかし、前述の様に明治39年(1904年)には測量も行われており、開通時の沿線にも「悲願80年」と記されているのも見かけられたので、正式なる野岩線の出発時点はこの測量の時なのかも知れない。
 実際に沿線の人達にとって野岩線が具体化した時期はこの時だったのであろう。
 また、喜びの一方で平行するバス路線が廃止され不便になった、という話しも聞かれた。
 確かに、直通客にとっては鬼怒川温泉〜会津田島がバスで2時間かかっていたところを野岩線は最速でその半分の1時間で結ぶし、五十里湖沿いの羊腸国道は大雨の度に不通となり、冬季積雪もあって、交通が途絶しがちであったがその心配も無くなった。
 でも、集落の中にこまめにあったバス停が無くなり、場所によっては駅までかなりの距離になってしまった集落があるのも事実である。
 鉄道敷設法により計画された野岩線のルートは現在とはだいぶ違うもので、それは鬼怒川、男鹿川にとことん沿い、各集落を結ぶルートであった。  もちろん明治、大正期では今日のような建設は不可能でトンネルではその最長が640m、橋梁も最長15mで作り上げようというものであった。(野岩鉄道での最長トンネルは葛老山トンネル4,250m、最長橋梁は第2鬼怒川橋梁300m)
 しかし、実際にはとてもそのようなもので建設できたとは思われないし、できたとしてもその後崖崩れなどでしばしば不通になっていたことであろう。
 野岩線沿線はがっしりとした地形に見えるが実際にはけっこうもろい地質である。
 古くには、天和3年(1682年)大地震で葛老山がくずれ、男鹿川をせきとめ自然湖(旧五十里湖)ができ、五十里部落が水没している。
 そのままでは危険な為なんとか水を抜こうとしたが工事は成功せず40年後の享保8年(1723年)の大雨ではんらんし、土石流となって、宇都宮、真岡付近にまで流れだし、死者1万2千人あまりという災害となった。
 近年では今市地震(昭和24年 M6.4、死者・行方不明10名、家屋の全半壊約3000棟)も起きている。
 また、鬼怒川温泉は岩の割れ目から湯が噴出しているところから発見され、川治温泉も崖崩れの跡に湧き出しているところを発見されたといわれている。
 また、古くに建設されていればその後に作られた五十里ダムによって路線変更を余儀なくされたであろう。
 五十里ダムは昭和25年着工、昭和31年竣工である。
 ちなみに五十里ダムは昭和初期にも計画され着工もしたのであるが工事中に基礎岩盤に大規模断層が発見され工事は中止となった。現在のダムは場所を変えて建設されたものであり、始めの場所は海尻橋付近であった。その時の工事では新藤原駅より工事現場まで国道121号線上に工事専用軌道が敷設されていたそうである。

 なお上三依塩原は昭和63年、国道400号線の尾頭トンネルが開通し、塩原温泉への入口となったことから、下野上三依より改称された。
 この上三依塩原〜西那須野も鉄道敷設法により路線計画された区間である。
 また経営状態は始めこそ良かったものの年々客足が落ち込み、現在は苦しい状況にある。
 そこで来年(2005年)4月からは鬼怒川温泉〜会津若松及び喜多方の直通運転を行い、更に東武鉄道の新宿乗入れ(JR相互乗入れ)により利用客増加が計られる。

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