旧館

************ ж 4 ж 野岩羽鉄道(1) 下野軌道〜東武鉄道鬼怒川線 ************


 浅草駅から東武鉄道の特急スペーシアで1時間30分、
アナウンスが日光杉並木の案内をするとやがて下今市駅
に到着する。
 浅草からは130km程の距離なのでかなりの快速ぶりだ。
 ところが下今市を出るといきなり急カーブで、初めは
大谷川を渡る為に仕方ないのかなとも思われるのだが
その後もほんの少しの部分だけ速度が出るだけで後は
やはり急カーブの連続。キーキーとレールを削りながら
少しいらいらするほどゆっくり走る。
 結局下今市からは12kmしかない距離を20分もかかって
鬼怒川温泉に到着。
 そこで「やはり東武鉄道も末端のローカル区間に行くと
ずいぶん格が落ちるなー。」と感想を持つ人も多いかと
思われるのだが実はこれは大きな間違いで格の違いではなく
歴史の違いなのである。
 鉄道路線はその歴史が古ければ古いほど紆余曲折が多く
なる。土木技術が未発達な時代には出来うる限り山を避け、
川は橋を短くする為に直角に渡る。
 よって線路が山間部にさしかかるとそれは等高線に沿って
くねくねと進み、川を渡る際はその前後に急カーブを用いて
直角に渡った。
 東武鉄道鬼怒川線はそもそもは下野軌道として大正6年に
開通しており、一方東武鉄道日光線はその頃はまだ
杉戸(東武動物公園)〜日光間の敷設請願すら行われて
いなかったのである。

 下野軌道は沿線の有志により付近の鉱山や木材資源の
輸送を主なものとして計画されまずは大正6年に大谷向今市
(大谷川北岸)〜中岩(鬼怒川南岸)で暫定開業をし、その
年末には鬼怒川にも橋がかかり大原(鬼怒立岩)までの開業に
漕ぎつけた。
 大正8年には大原より下滝(旧鬼怒川温泉)、藤原と順次
開通し、また国鉄今市駅と大谷向間も同年に開通、大正9年
1月1日に新今市(国鉄今市)〜藤原(新藤原)の全通式が
行われた。
 下野軌道はかような経緯を持って生まれたのだが実は
この鉄道には更に前身がある。

@ 大谷川のカーブ (大谷向)
 それは鬼怒川における水力発電開発によるもので時代は更に
さかのぼり明治末期の話となる。
 それを手がけたのは鬼怒川水力電気という会社で東京鉄道
という東京市街の電力供給をも営む会社との大口契約に基づく
ものであった。
 鬼怒川水力電気は下滝(現鬼怒川温泉)に発電所を、上流部に
黒部取水ダムを建設した。
 その建設には、黒部ダムにおいては資材運搬の為今市より
大笹峠までの既存の道(12km)を牛車が通れる程度に拡幅、大笹峠
より青柳平(現学校校庭)までの1kmに索道を建設してそれにあたった。
 一方下滝発電所建設においては今市より会津西街道(現国道121号線)
にレールを敷いて馬車鉄道による資材運搬が行われた。
 発電所建設工事は明治44年に起工しているが資材運搬の軌道は
それ以前から稼働していたものと思われ、鬼怒川左岸を通っていた
会津西街道より発電所の建設されている右岸へ渡る為の鉄橋が

A 急カーブが続く (大桑〜小佐越)
明治33年に完成している。
 軌道は立岩駅(現信号場)付近から鬼怒川へと寄り添い、
鬼怒川温泉駅付近から急勾配で高度を下げ、橋を渡ると現温泉街の
中を通って、建設現場に至ったと思われる。
 以前は左岸に鉄橋へと下りて行く急勾配の路盤らしきものが
あったのだが現在はホテルの新設により姿を消してしまった。
 ちなみにその鉄橋は官営鉄道か日本鉄道の払い下げ品らしく、
元は下路トラスだったものを上路トラスとして使っているようで
あるらしい。
 その鉄橋が出来た頃はまだ鬼怒川温泉は滝温泉と呼ばれて
湯治宿が一軒に民家が15軒ほどの寒村だったそうである。
 そしてその鉄橋はくろがね橋という名で、現在も温泉街の
中心で頑張っている。
 その後鬼怒川水力電気の大口契約者であった東京鉄道はその事業が
東京市へ買収され後の都電になり、鬼怒川水力電気そのものも

B 立岩信号場
小田原急行電鉄と合併し小田急電鉄となったが電力事業は国家管理
から東京電力へと切り離され、下滝発電所も廃止。現在は少し場所を
移した地下で鬼怒川発電所が稼働しており、鬼怒川温泉駅を降りると
目前の山腹に這うのが見える導水管だけが当時の面影を残している。
 さて、話がだいぶ進んでしまったが、理由はともかくその様な寒村に
鉄道が敷設されたということは大事であった。
 しかし、その鉄道も発電所の建設工事が終われば不用になってしまい、
撤去されてしまう事になる。
 それはいかにももったいない、という事でなんとかその軌道を利用して
新たに鉄道会社を起こそうとする考えに及ぶのは当然のことである。
 結局その工事軌道がその後に活用されたのか否かははっきりとはしない
のだが、この軌道の存在がその後の下野軌道株式会社発足の火付け役に
なったことは確かなようである。
 なお、工事軌道はこの他に黒部ダムへ向かう栗山街道の一本杉まで

C くろがね橋たもとの東京電力専用道
建設軌道の廃線跡?
が存在したらしいのだが詳細はわからない。
 かようにして、大正3年に下滝発電所が完成した後の大正4年に
発足した下野軌道株式会社であったが、その経営はやはり苦しかった。
 まずはあてにしていた鉱山の閉山にみまわれた。
 これは開業後間もなくの大正7年でまだ大谷向〜大原の暫定開業
中の事である。
 この鉄道の生命線ともいえる西沢、木戸が沢の鉱山が精錬作業を
中止してしまったのである。
 これにより貨物輸送は大打撃を受けその量は半分以下になって
しまった。
 この状況を打開すべく大正10年に社名を下野電気軌道株式会社
と変更し翌11年に電化開業するものの関東大震災の影響なども受け
業績は振るわず、さらに矢板線を開業させたもののやはり思わしくは
無かった。

D 国鉄今市駅前 新今市駅跡?
 その間に何回かの社長交代があったが昭和2年に就任したのが
宇都宮氏。この人は東武系の人でその後の下野電気軌道は東武鉄道
との結びつきが強くなった。
 まずは昭和4年に東武鉄道日光線が開通した事によりそれまでの
国鉄今市駅に隣接した新今市駅を廃止し、現在の下今市駅を起点へ
と変更。更に東武鉄道との直通運転の為に昭和5年にレール幅を
東武鉄道と同じ物に改軌し、翌6年に架線電圧も1500ボルトに
改められた。
 昭和5年に下滝駅が鬼怒川温泉駅と改称され昭和10年に浅草からの
特急電車が運転されると、繁栄が予期されたが第二次大戦により運行
中止。そして昭和18年に東武鉄道に買収されて東武鬼怒川線と
なった。
 その後昭和23年に特急が復活、翌24年には今市地震により被害を
受けるも持ちなおし、昭和37年鬼怒川公園駅が開業。昭和39年

E 旧鬼怒川温泉駅跡地
には鬼怒川温泉駅が移転し現在の姿となった。
 さてかつての下野軌道の遺構であるが、現JR今市駅前にあった
新今市駅は跡形も無く昭和末期頃には空き地と自転車置き場に
なっていた。また下今市までの廃線跡はそれらしき雰囲気の残って
いる場所もあったがそれが確かにそうであるかはわからなかった。
 また新高徳〜小佐越間にあった鬼怒大瀞駅もその遺構は見当た
らないがバス停にその名前が残っている。なおここから小佐越にかけて
国道の旧道が残っているが線路と交差する部分は歩行者専用地下道に
なっており車の通行は出来ない。
 立岩駅付近にはかつて村役場などがあったそうだが現在は単なる
信号場で(起点11.6km)ここから鬼怒川温泉駅までが複線になっている。
 なお初めに大谷向〜大桑間で直線区間がありある程度速度が出る
と書いたが、この区間は下野軌道開業後間もなく路線変更がなされた
区間で、そもそもは杉並木に沿ってレールが敷かれていた。

F 杉並木沿いに残る廃線跡?
 この区間はかつての発電所建設用軌道の跡地を利用したものと
思われ、大桑駅西方にある杉並木脇にはそれらしき細道があるが
(車両通行不可)こちらも確証は無い。





撮影
 @ABCF  平成15年
 DE  昭和61年



  −−追記−−

 鬼怒川公園駅手前の川には現在の鉄橋の下にもう一つの橋台らしき
ものがあります。
これは……?

 大原運動公園(旧藤原町大原 R121が鬼怒川温泉で旧道と
バイパスに分かれる所の少し手前です)には下野軌道開通80年を
記念したSLのレプリカがあります。
 作られた当時は黒い色をしていましたが、いつの頃からか
花ガラに。
 近くにはSL型のトイレもあります。

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