************ ж 3 ж 東武鉄道 矢板線(2) ************
@ 芦場駅跡
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船生駅跡を過ぎるとまた田圃の中を進む。このあたりからかつて木材運搬の手押し軌道が北方の山中、東古屋湖の上流あたりまで延びていて鶏頂の木々を運び出していた。
田圃が途切れた先、その山すそをかすめるような所が天頂駅があった所。
近くに銅を産出した天頂鉱山があって先の木材と共にこの鉄道を生み出した功労者で部分開通もこの天頂までであったが、それらが衰退すると共に鉄道も衰退するという運命共同体でもあった。
銅の鉱山はその他にも山深い所や1つ先の芦場駅近くにもあった。
その芦場駅跡はしっかりとホーム跡のコンクリートが残っていたが、まっすぐに伸びてきた廃線跡の道路と少し間が開いているので、おそらくは交換設備もしくは側線を持ち銅の積み込みが盛んに行われていた駅であったのであろう。
A 耕地整理により消えた廃線跡
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芦場駅跡を出た廃線後は淡々と田圃の中を進んで行ったが、突然ぷつりと切れた。
突き当たった先はきれいに区画された田圃が広がっているのだが、平行してきた電線だけが田圃の中へまっすぐに延びている。
廃線跡は切り崩されて田圃になってしまったが、電線はまだ手付かずで、その電柱の足元だけがぽつぽつと小高くなっていて元の路盤の高さを示していた。
B R461と平行していた廃線跡
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この様に廃線跡は急速にその姿を消しつつあり、通り過ぎてきた天頂駅跡付近も国道のバイパス予定地になっているので、そのたたずまいが残っているのも時間の問題かも知れない。
消えた廃線跡は国道に合流するところでまたその姿をあらわした。
今度は国道に沿って低い築堤で緩やかに坂を登って行く。
C トンネル出口
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やがて、坂の頂上近くで拡幅された国道に吸い込まれる様にまたその姿を消してしまったが、峠の切通しの先まで進むと、1段低いところにトンネルがポコッと口を開けていた。
国道の方は大した坂でもなく、トンネルを必要とする様な山とは思えないが、以前は急な山道で峠を越えていた場所で、鉄道はやむなくトンネルで山越えとなったのであろう。
トンネルの中を覗いて見たが真っ暗で入口はもとより、内部の様子は全く見えない。
入口はどうなったのだろうと国道を少し戻ってみたが、その広く明るい切通しにはその入口らしきものは見えない。 おそらくその切通しを作る際に途中からつぶされてしまったのであろう。
その切通しの崖をよく見ると数々のレンガの破片が混ざっていた。
トンネルを抜ければ玉生の集落で、ここから氏家へ向かうかどうかともめたところだが、線路は大きく左へ曲がって矢板を目指した。
玉生の駅は当時集落から離れた田圃の中にあったが、今ではその場所はすっかり町の中になってしまっている、JAのあたりである。
生憎とその場所をしっかりと確認しなかったのではあるがもしかするとその雰囲気は残っているのかも知れない。
D 荒川を挟んで
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小さな川を渡るところに橋台を点々と残しながら役場の横で町を抜けた廃線跡はまた田圃の中を進む。
このあたりの遺構はしっかりと残っていたが、築堤の上にブルドーザーがドデンと座っていたりするのでやはり何時まで残っているかが不安だ。
やがて荒川に突き当たる。
この川は広く浅く役人的に改修されてしまっており、橋があったであろうその跡はきれいに無くなっていた。
E 農道とアンダークロス
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荒川を渡った先は舗装道路になっていて、地元の生活路線として残っている。
ここから矢板の間は丘陵地帯になっており、鉄道を敷設するには不向きな地形だ。
丘陵とは言っても森林資源が豊富というほどの山でもなく、鉱物資源なども無かったようで、集落もあまり無い。
よって、この区間には途中駅が2つしかなく、駅間距離はこれまでの倍ぐらいになる。
氏家へと進んでいれば地形は平坦で集落も多く、農産物の取り扱いも多くあったのであろうが、そうであってもこの鉄道の存続は無理であったであろう。
もっともその様な土地を遊ばせておくのはもったないので、鉄道の痕跡はずっと少なくなっていたであろう。山越えを選んでくれたのは私にとっては幸いである。
その山を選んだ廃線跡は荒川を渡るとすぐに丘陵地帯にさしかかる。
しかしそれはなだらかなもので、1つ目の丘を農道をくぐりながら切通しで抜けると国道からの道が合流して来て柄掘駅の跡の様だ。
残念ながら駅だというはっきりとした痕跡は残っておらず、なんとなく道が広くなって、その周りが違和感ある土地で不自然に木が生えているあたりがそうであったのであろう
と思われる。
F トンネル
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広い道に獲りこまれた廃線跡は500mほど進むと右にそれ、また1車線の狭い舗装道路になる。
その廃線跡に歩を進めるとすぐにトンネルが見えてくる。こちらのトンネルは玉生手前のトンネルと違って、しっかりと残っており出口も見える。
このトンネルで峠を越えると谷あいを緩やかに下って行く。
思っていたほど険しい地勢ではなく、あっけなく山を越えてしまった。もっともこの程度であったから矢板へと敷設する事が出来たのであろう。国道がこのルートを選ばなかった
のが不思議なくらいである。
谷間を進みその国道と交差した少し先が幸岡駅跡。
待合室建物が移築され残っているという話を聞いたような気もするが、駅跡と共によく解らなかった。
G 内川に残っていた橋台
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廃線跡そのものも、谷を下りきったあたりから広い道になってしまい、よく解らない。
もしかするとそのつもりで通ってきたが廃線跡は別にあったのかも知れない。
東北自動車道を越えると丘陵は終わり、田圃が広がる。
その田圃の中、道路より少し下流の内川の川岸に一対の橋台がぽつんと残っていた。
ご多分に漏れずこのあたりの廃線跡は耕地整理により消えうせ、橋台だけが残った様だ。
その先も痕跡らしいものは見うけられず、道路が東北本線に沿うあたりでそれらしきカーブを持った土地があったが確証は無い。
整備された矢板駅前には東武バスが停まっていた。
写真撮影1986年12月4日
−−追記ーー
その後Bの廃線跡は道路拡張の為、Fのトンネルは老朽化の為に姿を消し、Gの橋台も取り壊されてしまいました。
幸岡駅〜矢板駅の田んぼの部分の線路は築堤で小川を渡る部分の橋台が広告塔の土台として残っていました。
広告塔自体は朽ちてしまっていましたが橋台はしっかりと大地にふんばり続けています。
橋台の先の道路際には築堤跡と思われる空き地があります。
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−−2005年−−
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