2015(H27)1月
1/30 昨日は「働く人に学ぶ会」があった。かつての保護者の方に無理を言ってお願いして講師として来ていただいた。前任校でもそうだったが、本当にありがたいと思う。仕事を抜けてわざわざ来てくださるのだから、申し訳ないと思う。 しかし、子どもたちにとってプロの方の話を聞く機会ってほとんどないので、子どものためになって本当によかった。 その方は美容師なのだが、専門学校の講師などもされていた「実力者」なので安心して頼めるっていうのもあるけれど・・・。本当に感謝です。

1/29 寒暖の差が激しすぎる。風邪を引く生徒も増えるだろうなあ。いや、それよりも教員の方が年齢的に堪えるか。そういう自分もその一人(笑)。朝目が覚めるとのどが痛い。ついに来たか・・・。何とか健康を維持しないと週末の部活の大会が・・・。病は気からという。とにかく気持ちを高めていこう。

1/28 昨日から3年生の教科書が終わり、入試対策に入った。とは言っても残り13時間しかない。この時間で、漢字、小説、説明的文章、知識事項を行っていく。私立合格者のテンションがなかなか上がらない気もするが、そんなことはない。実は県立受験者にも意欲が高くない者もいる。とにかく、時間がない。合格発表の時、みんなが笑顔になれるように、今は学力アップを図るだけだ。

1/27 日差しでも季節の移ろいが感じられるようになってきた。日差しの強さ、弱さって季節によって全然違う。朝の日差しの強さが段々増してきた。こんなところにも季節の移ろい、春の訪れを感じる。

1/22 教師によって指導が異なる。これは当然、いい意味にもなるし、悪い意味にもなる。悪い意味になりそうなのをあらかじめ予想し、いい意味になるようにするのがベテランの仕事だろう。目の前にある2つの事例からそんなことを思った昨日だった。これからの教育界は、ベテランが力を持っていないと若手のフォローがうまくいかず、職員集団の機能不全に陥ってしまうだろう。そうならないためにも、事前のフォローが必要だ。 ただ、これができるのは、メタ認知的視点をもっている教師でないと難しいので、中規模校で各校1人いるかいないかというところか。 と言っている自分もメタ認知的視点がないので、反省と、精進。

1/21 出勤して職員玄関から学校に入ろうとすると、よい香りが漂ってくる。職員玄関前にある紅梅の香りだ。梅の花は、いち早く春の訪れを知らせてくれる。香りで季節の移ろいが感じられる。次の香りはというと・・・沈丁花だ。沈丁花の花が咲く。沈丁花は卒業式の香りだ。

1/20 この時期は、私立に決定して入試が終わった組と、県立入試を控えているこれから組の2つに分かれる。1つの教室に一緒にいるので、どうしても温度差が目立つ。この温度差は、つまり学級経営から生じるのだろうと思う。これまでの学級経営の結果で温度差が生まれる。県立入試を控えている者を応援するような、そんなクラスでありたいね。 自分は今1年生の担任だけど、この生徒たちが2年後どうなっているだろうか。自然と当たり前に、県立入試を控えている者を応援するようなクラスにしていきたいなと考えている。

1/19 本年度の道徳授業は更新していませんが、毎週しっかりと行っています。ほぼ、年回計画どおりです。こういう当たり前のことが、「ちょっとすごい」と思われる時点で問題だと思う。だからこその教科化なんだろうな。 私立高校入試の結果が出始めている。進路指導では、生徒自身の自己理解と親の自子理解が合致すれば進路で(特に受験校選択で)もめることはない。だいたいもめるのは、親子での理解が浅いからだ。これからの学校教育は、生徒への自己理解だけではなく、親への自子理解を支援する時代になるのだろうか。となると、義務教育初期の小学校1年生の時から始めないとダメだな。大人はある程度「自分」に凝り固まってしまうから。

1/16 数日前のこと。朝6時過ぎに東の空を見ると、夜明け、朝焼けという感じのきれいな空が見えた。色のグラデーションが美しい。「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少しあかりて・・・」という枕草子の一節を思い出した。これって、時期的にはいつくらいなのだろう。わざわざ「春」とは書いてあるが、新春の1月過ぎでもいいのだろうか。まあとにかく、空がきれいだったことには変わりない。心洗われた風景でした。

1/14 昨日は5時間授業で事務時間が1時間。その1時間で家庭訪問。帰ってきて相談。帰りの会終了後、すぐにある作文コンクールの審査に。17時前には終わったが、9時間ほとんど休みがない。それでも多忙感や疲労感が少ないのは気のもちようだと思う。事務時間がなくて当たり前。こう思えばいい。ただ、勤務時間後はリフレッシュが必要。勤務時間内はみっちりと動く。勤務時間外はリフレッシュ。こういう「見通し」というか、予定が立っているだけで多忙感や疲労感が薄れる。先が見えないと精神的にキツくなるが、先が見通せれば(もしくは見通せないものと達観すれば)キツくない。やっぱり自分にあった多忙感や疲労感をなくしたり薄めたりする手段をもつことが必要だ。

1/13 三連休のある日。部活動をしに学校へ行ってみると前任校で同学年だった方にあった。練習試合で来たそうだ。その方は、教育相談系のすごい方だ。ある時ベテランの学校カウンセラーの先生がその方に「先生の見立ては?」と聞いていることがあった。「見立て」という言葉の響きも新鮮だったが、何より学校カウンセラーの先生に「見立て」を聞かれることもすごいなと思った。生徒への接し方が参考になったことを思い出す。 教師を長くやっていると、そういうすごい方と仕事が一緒にできるチャンスがある。その時、自分が学べるかどうかが、大切だと思う。振り返ってみると、もっともっと色んなことを教わればよかったなあという想いでいっぱいだ。

1/10 昨日は家庭訪問。風が強くて冷たかった。15分くらいしか外にいなかったが、とてもつらく感じた。外で働いている方々の大変さの一端に触れた気がした。その15分間で頭の中に『教師修行十年』の一節が浮かんできた。「こうしたみじめな想いを彼と分ちあっているのだと理性は訴えたが、心の奥底では受け入れられなかった。」ここのくだりは、詩的な表現もあるが、心の中にある正直な気持ちも書かれてある。自分はまだまだ教師修行不足。

1/9 昨日も風が強く、冷たい。いよいよ3学期が始まる。3年生の3学期の授業日数は41日。最後は特別日課になるので、実際の教科の日数はあまり多くない。教科書を早くおわし(とは言っても1ヶ月はかかるだろう)、入試対策に入らなければ。年が明けると、やっぱり「あと少し」という感じが強くなる。また、入試も始まり、やっと「本番」という感じだ。

1/6 久しぶりに『教師修行十年』を読んだ。その中で自分は吉岡栄子のくだりのところが好きだ。特に、『こみあげてくる怒りを押え「今言ったことばを忘れるな」と、荒々しいことばで返した。』という部分は、熱き青年教師がよく表れていると思う。今の時代なら問題になりそうな表現だが、かつてはこういう「熱い」時代が(誰にでも)あったのだと感慨深い。こういう等身大の表現が表れている教育書はもうないなあ。時代の流れとは言え、寂しい限りだ。親の立場からすると、こういう教師がいてもいいんだけどねぇ。