昭和21年3月、貨物船の船底に押し込まれての台湾からの引揚者。 かろうじて女学校の卒業証書だけは貰えました。 学徒動員の兄は無事帰還しましたが、兄の友人は、特攻隊、 落下傘部隊などで出撃しました。 特攻機に乗って出撃しながら、機の故障などで三回も基地 に戻りついに終戦、命永らえた一人の友人は、最後まで重荷を 背負って生きられたそうです。 さて、私達一家六人は長崎に辿り着き、その後熊本、宮崎、大分 そして親達は大阪、東京、また関西へ。 私はまた熊本、東京、今終の棲家は栃木で、流浪の民も漸く 安住の地を得たということでしょうか。 私が専業主婦でいたのは、年子の息子達を生んで三・四年です。 戦後から現在まで、私は何時も何かをしていました。 この習慣は仕事人間の性として私に残ってしまいました。 毎日、パソコンの前に座って何かをするのが何よりの喜びに なっています。 ホームページに下らないことを書いたり、掲示板を設けたり、 こんな私を見て、人は年寄りの踏ん張りとお笑いになることで しょう。笑われていることは承知の上で、私は踏ん張って 生きております。私の人生ですから。 |