来し方を想ふ |
経堂の先生のお宅には、先生よりも沢山の弟子を 持ち、もっと立派な家に住む所謂奥様族も来ていた。 先生に作品を見ていただくまでの少しの時間、結構 ひそひそとお喋りなどをする。 何処にでもお喋りの女はいるもので、ここにもいた。 何かの話の中で、我が家には電話が無く、呼び出し をして貰っていると私が言った時だ。 「えっ?電話のない生活なんて考えられないわ。 それじゃ出前も取れないじゃないの」 出前などしてもらったことも無い我が家の暮らしだ。 私は唖然とした。そして、その屈辱感に体が震えた。 台北では、ハンドルをぐるぐる回す電話機の時代から 家の柱には電話機が付いていた。 そういえば、引揚げ以来、電話機はなかったなぁ。 あの頃は電話を付けるのに電話債券を買わなくては ならなかった。 引揚者の貧乏暮らしでそんなものを買う余裕など あろう筈が無い。 私の結婚だって、引揚者同士の無一文からの出発だ。 書道だって、内職に寺子屋をやろうと思って始めたもの。 世田谷まで行かなくたって、師範は持っていたのだけど、 もう少し極めたいという私の我侭から通い出したのだ。 午前中に終わって、家に帰りつくのは午後二時頃だった。 私は、余計なお金は使わないということと、早く帰りたい 一心で、駅でトマトジュース一本だけ飲んで電車に乗った ものだった。 去年、息子の車で当時の我が住まいのあたりを見て回った が、電話の呼び出しをしてくれたお店はまだ残っていた。 三十数年前のあの屈辱を私は忘れることが出来ない。 (H.19.2.20記) |