来し方を想ふ


(18) 屈辱を受けて


経堂の先生のお宅には、先生よりも沢山の弟子を
持ち、もっと立派な家に住む所謂奥様族も来ていた。

先生に作品を見ていただくまでの少しの時間、結構
ひそひそとお喋りなどをする。

何処にでもお喋りの女はいるもので、ここにもいた。

何かの話の中で、我が家には電話が無く、呼び出し
をして貰っていると私が言った時だ。
「えっ?電話のない生活なんて考えられないわ。
それじゃ出前も取れないじゃないの」

出前などしてもらったことも無い我が家の暮らしだ。
私は唖然とした。そして、その屈辱感に体が震えた。

台北では、ハンドルをぐるぐる回す電話機の時代から
家の柱には電話機が付いていた。

そういえば、引揚げ以来、電話機はなかったなぁ。
あの頃は電話を付けるのに電話債券を買わなくては
ならなかった。
引揚者の貧乏暮らしでそんなものを買う余裕など
あろう筈が無い。

私の結婚だって、引揚者同士の無一文からの出発だ。
書道だって、内職に寺子屋をやろうと思って始めたもの。
世田谷まで行かなくたって、師範は持っていたのだけど、
もう少し極めたいという私の我侭から通い出したのだ。

午前中に終わって、家に帰りつくのは午後二時頃だった。
私は、余計なお金は使わないということと、早く帰りたい
一心で、駅でトマトジュース一本だけ飲んで電車に乗った
ものだった。

去年、息子の車で当時の我が住まいのあたりを見て回った
が、電話の呼び出しをしてくれたお店はまだ残っていた。
三十数年前のあの屈辱を私は忘れることが出来ない。
(H.19.2.20記)


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