四十年ぶりの母の手紙


華の?七十台もいよいよ今年で終り、来年からついに
人生の最終章を描くことになる。

というわけで、家中の整理を始めた。

納戸の箪笥の上に、引っ越してきた時に乗っけたままに
なっているダンボール箱がある。
片付けを手伝ってくれているC子さんは、小柄だけど
結構力が強くて、脚立にも乗らずに何時の間にか床に降ろ
していた。

テキパキと埃を払って中身を出していたが「あら〜お手紙
が一杯ありますよ、ラブレターじゃありませんかハハハハ」
と私をからかった。

「ラブレターは無いわよ。しかし沢山あるねぇ。誰からの
かしら〜〜。でももう見ない・・一切見ないわ。読み出し
たら大変だもの、色々見てたらきりがないからね。」と
目を瞑って袋に入れた。

夕食後、あの手紙の束が気になって仕方が無いので
納戸から一抱えもあるあの手紙の入った袋を持ってきた。

湿気でくっついた封書が塊になっている。
封筒の差出人に驚いた。殆どが母の名前じゃないか。
表書きは弟の字だ。きっちりとした懐かしい弟の字だ。

鉛筆で書いた母の手紙はいつも「お手紙ありがとう」で始
まっている。
え〜〜?あの頃私はそんなに手紙を出してたのかな〜と
驚いた。まるで記憶が無い。

私の兄弟妹はみんな結婚式を挙げている。
私だけは、区役所に婚姻届を出しただけの、我が家では
些かお転婆娘だったのかも知れない。

爾来半世紀あまり、私は誰の世話にもならず自分達だけで
頑張ってきたと多少自負していたことは確かだ。

手紙に押されてる局印は、殆ど私が年子の男の子を生んで
からの八・九年間に集中している。
経済的にも精神的にも肉体的にも、私の試練の時代だ。

毎日、胃薬と頭痛薬は離せなかった。
体重は40キロの痩せこけた女だった。
銭湯に行くのが恥ずかしく、お医者さんに、肥る薬はあり
ませんかと真剣に聞いたことがある。

十年くらい前に胃カメラを飲んだとき、十二指腸潰瘍の
痕があると大学病院で言われた。多分、あの頃できたの
だろう。

私は全く記憶していないが、母には色々訴えていたのだろう。
母は、私の二人の子ども達の体を心配し、或る漢方薬を飲ま
せなさいと繰り返し繰り返し毎回書いてあり、時々その薬を
送ってくれていた。(今、思い出した)
生まれながらの心臓弁膜症だった私の弟の命を助けてくれた
小さい銀の粒だ。(母は自分も飲み続け、95歳の天寿を
全うしている)

夫の勤め先の会社が危なくなっていた時で、給料の遅配など
も始まっていたのかもしれない。

あの薬はなかなか手に入らず、母が買いにいける薬局で偶然
売っていることが分かった時の大変興奮した母の顔を思い出す。

母は末っ子になる私の弟と暮らしていた。
長男である私の兄が小さな事業に失敗し、弟もそれに巻き込ま
れていたので、母は誰にも言えない愚痴話を手紙に零している。
あの肚の座った母が・・・余程切なかったのだろう。

手紙には、私の二人の息子の名前を○○ちゃんも○○ちゃんも
と並べて書いてあるのが、そのうちに、○、○ちゃん・・
と省略したりしてある。面倒くさかったのだろう(笑)
子供達の名前と夫の名前を必ず書いて、家族は仲良く皆健康で
あれば、必ず良い方へ向いていくから・・と。

私が、存在すら忘れていた、鉛筆で書かれた湿った母の手紙を
読んでいて、思わず嗚咽の声を抑えたもの・・・・それは・・
どの手紙にも、「千円入れておきます。○○ちゃんと○○ちゃん
に何か買ってあげてね」とあったことだ。
ある手紙には、「今頃ちょうど役に立つんじゃない?失礼だっ
たかな」とある。給料前の頃だったに違いない。

母が、自分も苦しい暮らしの中から娘の為にと折々に送って
くれていた千円札だったろう。

湿った鉛筆書きの手紙を握り締めて、私は咽び泣いた。

---------閑話休題----------

件の漢方薬は、横浜の妹も私もしっかり飲み続けている。
これだけは母の遺言だと思っている。

ありがとう!お蔭さまで元気に暮らしています!!。


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