母を語る |
父は官吏だった。いわゆる鬼千匹と言われる 小姑達となにがあったのか、母からはなにも 聞いていないが、私には分かる。 肚の坐った、我慢強い母は当然芯の強い人間 だった。 私なんて、鼻っ柱が強いだけで、情けない位 意気地のない女である。 口髭を蓄えていかにも謹厳そうな顔をした父 だったが、どうも道楽もしていたらしい。 子供の知らないところで、母は辛い日もあった ことだろう。 すこしお酒が入って機嫌のいい父は、浴衣の裄 をピンと伸ばして“奴さん”を踊って見せた。 “え〜え奴さ〜んどちらゆくゥ〜♪” 相当月謝も払ったことだろう。 |
昭和38年に父は逝った。 父の羽織の裏地は私の帯に作りかえられた。 今箪笥のこやしになっている。 昨夜、横浜の妹から電話が入った。 母はパッチワークの“元祖”だというのである。 つまり、どんな切れ端の布でも、配色を考えて 一枚の布地にしてしまうのだ。 こんな面倒くさい仕事は、自慢じゃないが? 私は勿論、妹もやれない。 コスモスや小布接ぐ母正座して |