母を語る |
九十五歳で人生の幕を閉じた私の母が、ずっと口にして いた言葉は、「わたしは何かやりたかった。今の時代に 生まれていたらねえ。これだけが残念で仕方が無いよ」 だった。 私は、この言葉が頭から離れない。 明治三十四年、親が向った台湾への船の中で、母は誕生 した。 お目出度いということで、名前は船長さんがつけてくれ たそうだ。“静枝”が母の名前である。 静枝は二十歳で母親を亡くした。 五人きょうだいの長女として、母親代わりの奮闘の生活 の始まりである。 |
お針を少々習っていた母は、弟達の着物を縫い、袴まで 見様見真似で作ったと言っていた。 三つ編みのお下げ髪で、銘仙の着物に袴をつけた妹、つまり 私の叔母は、セピア色の写真の中で幸せそうに微笑んでいる 母の縫った着物を着て・・。 女学校へ行けなかった母は、それでも向学心は捨てがたく 女学校終了の資格を取得する為の勉強もしたようだが 力不足と、まあなにか事情もあったのだろう、とうとう 実現できなかった。 そして舅姑、小姑のいっぱいいる父と結婚した。 |