WHITE ALBUM SS

Last Stage



 登っていく。
 どこまでもどこまでも登っていく。
 一体、この螺旋階段は、どこまで続くのか。
 それは、登っている彼女――森川由綺――にも解らなかった。
 周りには誰もいない。先ほどから自分の跫音しか聞こえない。そんな中を止まることなく走り続けている。本当に張り裂けてしまうのではないかと思うほど心臓の鼓動が激しい。身体は酸素を望んでいるはずなのに、肺が拒絶しているのか、吸い込むことすらままならない。
 時々足がもつれ、転んでしまう。しかしすぐに立ち上がり、また走り出す。
 どうしてだろう、こんなにつらいのなら、走るのをやめてしまえばいいのに。
 しかし、それが出来なかった。
 なぜなら、これは、彼女が望んだことだからだ。
 自ら望んで課した枷を、どうして自ら絶つことが出来ようか。

 しかし――それすら、枷かもしれないが――まもなく、螺旋階段の崩落が始まった。

 思えば、今まで階段の形状を保っていたのが不思議なほどだ。
 遙か彼方から階段の脆さを如実にあらわすような、崩落による重厚な不協和音が、次々に響きわたる。
 その音は、ものすごい勢いで自分に近づいてくる。悪いことに、由綺の足よりわずかに早い。
 追いつかれてしまえば、待つものは決まっていた。
 彼女は奥歯を懸命に噛みしめる。
 すでに麻痺している身体にむち打ち、奮い立たせるために。
 それをもって懸命に足を動かす。ふらついてもいい、もつれてもいい、とりあえず前に動けばいい。その足をもって形状が残る螺旋階段を登っていくしかない――それしか脱する方法がないのだ。
「!」
 だが、その途中、見覚えがある人影が見えた。
 理奈だ。
 緒方理奈。
 同じ芸能界の世界を歩んできた先輩であり、かけがえのない友達。
 息苦しいのか、喉を押さえ、足を引きずるように歩いている。螺旋階段の手すりに手を掛けながら、一歩一歩、歯を食いしばるように登っていた。
 由綺は足を止め、理奈に呼びかける。
 だが、理奈はこちらを向こうともしない。
 そんなことをしている間にも、崩落は近づいてきている。
 このままではどうしようもない。やむなく、由綺は理奈の手を掴み、また走り出そうとした……が。

 パシッ!

「……!」
 その手は、理奈によって勢いよく払い落とされた。まるで汚いものにふれるかのように。
 呆気にとられ、不思議そうな顔をする由綺に。
 理奈は不気味さまで漂うほど憎しみに満ちた表情を見せる。
 どうして、そんな表情を見せるのか……由綺には思い当たらなかった。
「……」
「……!」
「……」
「……っ!」
 もはや、崩落は間近に迫っている。それなのに理奈は由綺の懸命な説得を、まるで聞いてくれなかった。
 背後からは、二人を飲み込もうとする激しい重低音がどんどん近づいてくる。
 もう、限界だ――!
 由綺はきびすを返し、一人で走り出した。
 ――えっ? 
 なんということをしているのだろうか。自分がしたいことはこうじゃないはずだ。自分はあそこに留まるべきなのだ。――友を想うのなら。
 それなのに、足は、身体は、上へ上へ、一生懸命走っていく。
「――――!!」
 まもなく、後ろから悲鳴が聞こえる。
 間違いない。今のは、崩落に巻き込まれたであろう、理奈の悲鳴だ。
 ――あぁ!
 その断末魔ともとれる悲鳴を、由綺はただ聞くことしか出来なかった。



「うああっ!」

 ガバアッ!

 由綺の身体に乗っていた布団を勢いよくはじき飛ばす。
「はぁ……はぁ……あ、あれ?」
 きょろきょろと周りを見渡す。
 身体は妙に疲れている、がどこかに向かって走っているわけではない。それにさっきまであったはずの螺旋階段もなくなっている。
「……はぁ」
 そこまで確認して、やっと夢であることを理解したらしく、安堵のため息をもらした。顔にかかる髪の毛をなんとなく直す。
「どうして、あんな夢を見るのかな……」
 夢の中の自分を思い出す。
 無理矢理にでも怪我をした理奈とともに歩いていくのが当然と思ったのに、理奈をおいて走っていってしまった。
 自分だけ助かればいいとしかとれない、考えられない行動だ。
 でも、もしかしたら、深層心理などでは、せっぱ詰まったときにああいう行動をとる人間なんだろうか?
「……」
 自信が、あまり、なかった。実際そういうことに陥ったことがないから。
(そんなことは、ない、よね……?)
 それくらいしか言えないことが、歯痒いものだった。
「……さむ……」
 ふ、と時計を見ると朝七時。
 いかに四月、もう春も半ばいう季節でも、下着と冬弥に借りた長袖シャツといういでたちではさすがに肌寒さを感じてしまう。
「由綺……」
「!」
 慌てて左側を見る。
「……かぁ……くぅ……」
 隣に寝ている冬弥の寝言だ。こういうときには正直、心臓に悪い。
「ふふっ」
 冬弥の無防備な寝顔は、いつもの表情と違い、可愛らしい、などと思ってしまう。
 音楽祭を終えたときのオフ以来、約一ヶ月ぶりに与えられた半日のオフを、恋人冬弥とずっと過ごした。
 普通に映画館でデートして普通にファミレスで夕食を取って普通に部屋でお喋りして。
 いつも芸能界という特殊な環境にある由綺にとって『普通』というものがいかに自分に大切で必要かを感じ、そしてその『普通』をごく自然に与えてくれる冬弥の存在の大きさは計り知れないものであった。
 帰ろうとするとき冬弥に腕を掴まれ、半ば強引に唇をふさがれて『今日はずっと一緒にいて欲しい』と言われたのは普通ではないかもしれないが、由綺が憧れで描いていたシチュエーションの一つだったらしく、結局そのまま一泊してしまった。
(あははっ……でも、ちょっとだけ、腰が痛い、かな?)
 ……一ヶ月ぶりの逢瀬は、少しばかり?激しかったようだが。
「……くぅ……かぁ……」
 冬弥は、相変わらず眠っている。
 彼にとって、朝七時とは、朝というよりまだ寝る時間なのだろう。羨ましいくらいすやすやと寝入っていた。
 そのあまりに安らかな顔を見、由綺に妙ないたずら心が芽生える。
 つん。
「……んう?」
 つん、つん。
「……ん〜……」
 うに〜。
「……うう〜っ……ん……くぅ、かぁ」
 三頬つつき一頬つねり。
 そこまでやっても起きない冬弥は、睡眠の達人ではないだろうか?
 さすがに由綺もこれ以上は出来ず、ベッドから起きあがる。
(そろそろ帰らないと、ちょっと厳しい……よね)
 今日九時十五分をもって、再び、芸能人『森川由綺』になる。マネージャーの篠塚弥生は、時間に異常なほど正確だ。それまでに自分のマンションに戻らなければならない。
 身支度を整え、変装のつもりなのか、帽子をかぶる。このようなことをしなくても、由綺は理奈と違い、その辺りを歩いたところであの『森川由綺』だ、ということを一度もさとらせたことはないのだが。
 そう、由綺は、普段から普通の女の子、なのだ。
 ただ、歌が好きなだけの。
「あ、そうだ」
 何かに気が付いたように電話近くに置いてあるメモ帳に手を伸ばし、テーブルに、『またね冬弥君 ゆき』と書いた紙を置く。名を漢字で書くとサインに近くなってしまうきらいがあるので、敢えてひらがなで記した。この時間は、まだ、由綺は『森川由綺』でないから。
 そのメモをテーブルに置いて、こっそりと、部屋から出て
「……えっ?」

 どたあっ!

「いった〜い……」
 いこうと思ったら、部屋のドアのちょっとした段差に足を引っかけ、転んでしまう。あまりに意識しすぎた故の自爆だった。
「さっきは、痛くなかったのに……」
 夢の中の転んだ様子を思い出してしまうが、それも一瞬。
(今のは、さすがに起きたかも……)
 顔をしかめながら思わず、ちらぁり、と冬弥のことを見てしまう。
「……かぁ、すぅ……」
 信じられないことに、冬弥はまだ眠っていた。それを見ると、ふぅ、と安心しきった表情を見せ、立ち上がる。
 やはり、あまり意識しない方が良かったらしい。そのまま、冬弥の部屋を出ていった。

 自分の部屋に戻り、シャワーを浴び、身支度を整える。するとちょうど九時になろうとしていた。棚の上にあるブロック型の総合栄養食を手に取り、朝ご飯代わりに食べる。朝食は必ず食べること、は弥生との約束で、欠かさないことにしている。
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、流し込むようにそれを食べ終えると、もうすぐ九時十五分、というところだった。

 ピンポーン

 今日も惚れ惚れするほど時間ぴったりのチャイム。
 ここから『森川由綺』の始まりだった。



「おはようございます!」
「お、おはよう〜、由綺ちゃん」
 緒方プロダクション。
 今まででも業績は素晴らしいものであったが、音楽祭以降さらに伸ばしつづけ、結果、急遽スタッフを増員するにいたっている。
 だが、殆どの部署で二倍ほどの人数になったにも係わらず、以前よりも多忙になってしまっているのが現状だった。
『人数多けりゃいいってもんじゃない。より、効率よく、スマートに。そうすりゃこれでも充分だぜ?』
 社長である緒方英二のそんな意思がスタッフにも伝わり、現在は個々が素晴らしい稼働を見せている。もっとも、英二はそのスタッフが舌を巻くほどの仕事ぶりを見せているが。
 そのスタッフ一人一人に、挨拶を忘れない由綺。
 英二以下プロダクションスタッフ全員によって、自分が支えられていることを充分に把握し、元気良く感謝を込めて挨拶をすることは自分が出来るお礼の一つであるからだ。
 そのことはスタッフにもひしひしと伝わってくるらしく、だから頑張れる、という者も多数いる。
 弥生は最初通り抜けていくだけだったが、由綺に諭され、頭を下げる程度は挨拶するようになった。もちろん、由綺を悲しませないための配慮であることは否めないが、それも全体の雰囲気を上げるのに一役買っている。
 いつものように挨拶を交わしながら、今日のスケジュールを頭の中で復唱する。
 まずは、社長である英二との打ち合わせ、終わり次第テレビ局へ移動し生出演、そのまま別番組の収録……昨日のオフをあっさり帳消しにするほど隙間無く埋められている。
 だが、彼女には今大きな充実感がある。そのため、忙しさを感じたことはあまりなかった。むしろ、嬉々としているほどだ。
 好きなことを一生懸命出来る。これほど幸せなことはないだろうから。
「♪〜」
 今の気持ちを表すように、思わず鼻歌を歌い出そうになった、その時だった。

 ガァン!

「えっ?」

 ガァン、ガァン、ガラガラ……ン

 けたたましい金属音が響く。
 社長室のそばにある一メートル弱の高さがある灰皿が、ごろごろと転がっている。煙草の吸い殻数本が四方に飛び散ってしまった。
 そして。
「り……」
 理奈ちゃんおはよっ。
 社長室の方からずかずかと歩いてくる理奈に、いつものようにそう言いたかった……のに言えなかった。
 理奈の表情がそうさせたのだ。
 今まで見たことがない……駄々っ子のように涙をこらえながら、悔しそうにギリギリと歯を食いしばる……そんな表情だったからだ。
 何があったのだろう?
 由綺は急いで社長室の扉を開ける。
 だがそこには、今のことがまるで幻であったかのように、微笑む英二の姿があったのだ。
「ん? あぁ、由綺ちゃんか。おいおい、ノックもせず入ってくるなんて、少し行儀が悪いぜ?」
「え? ……あっ、はい! 申し訳ありません!」
「はは、素直な娘は好きだぜ。それじゃ、今日も打ち合わせをはじめるか」
「はい! ……あ」
 そういえば、と今ので少し忘れそうになった理奈のことを思い出す。
「ん? どうした?」
「英二さん……さっき、理奈ちゃん、すごい剣幕で出ていったんですけど、なにかあったんですか?」
「……いや、大したことない」
 表情を変えず、にや、と歯を見せて笑う。
 由綺が今まで見た中で、もしかしたら一番、わざとらしい笑みだった。
「さて。そんなことより時間が勿体ないからな、打ち合わせを始めるぞ」
 英二にはそこで話題をうち切られ、打ち合わせが始まった。
 ……だが、心に引っ掛かった。
 最近気が付いたことなのだが、あのようにわざとらしく歯を見せた笑いをしたときは、決まって何か大きな課題を抱えているとき、だった。
 そして、理奈がそれと関係していることは間違いない。
 今朝の夢と絡み合わせてしまい、先ほどの晴れやかな気持ちはどこへか消え、もやもやとしたものが残ってしまった。

…… TO BE CONTINUE ……

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