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痕SS 梓弓 |
| 「耕一っ! こらっ、起きろっ!」 微睡みを一気に突き刺す声がつんざき、心地よいぬくもりを抱える布団を一気に持ち上げられる。いかに麗らかな日和とはいえ、春になりたての澄み切った朝の空気はまだ冷たく、柏木耕一の眠気を醒ますのに充分だった。ぼやけた視界で目覚まし時計を見上げると、午前七時半。いつも起きる時間になりつつある。 辛うじて留年を免れ、三年に進級出来たが、単位数はそれだけに侘びしい。それゆえ毎日一限から出来る限りの講義を取ることを余儀なくされてしまっていた。 だが、それほどせっぱ詰まっていても、朝にはどうも弱く、あっさりと自分を甘やかしてしまう。それだけに自分にハッパをかけてくれるこの強烈なモーニングコールはむしろ感謝しなければならない、はず、だが。 「梓っ! こんな起こし方あるか、っていつも言ってるだろ!」 がばっと起きあがり、つい怒鳴ってしまう。しかし、彼女も負けずに言い返した。 「へん! こっちだっていつも言ってるじゃないか! それなら最初っからしっかり起きなってな!」 全く正論だが、近所迷惑なほど大声なのが玉にきずの彼女は柏木梓。耕一のいとこであり恋人でもある。現役合格を見事に決め、晴れて地元隆山から上京したばかりだ。 ところで、ここから徒歩で数分という耕一の大学と違い、梓の大学へ行くには駅まで徒歩十分、電車で二駅、さらに徒歩十分と、かなり離れたところにある。おまけに彼女は大学そばに自身のアパートを借用しているのだが、いざふたを開けてみれば、せっかくの自分のアパートを殆ど使わず、同棲してしまっていた。しかしこれにはそれなりの理由があった。 梓の上京一日目に遡る。 梓は住むアパートの部屋を適当に片づけて耕一のアパートへ訪れた。 電話ではよく会話していたが、実際顔を会わせるのは2ヶ月ぶり。 思った以上に立派だがそれ以上に古くさいアパートの二階にある『柏木耕一』と書かれたドア。その前に立つだけでなぜか心臓がドキドキと高鳴ってくる。 緊張でわずかに震える手でノックを二回。 するとまもなくして、久方ぶりの恋人が顔を出した。 「……よぅ、久しぶり」 梓はどこか照れくさそうに挨拶する。耕一もその顔を見、優しげな微笑みを浮かべながら、よ、と右手を挙げ挨拶を交わし、梓に上がるよう促した。 ここまではよかった、が。 「うぇ……っ、何だよこりゃ!」 梓が思わず叫ぶ。 無理はない、まず梓を出迎えたのは大量のゴミ袋である。それがぎっちりと扉を邪魔しないように端に押し込まれていた。生ゴミも混じっているのか、少し生臭い。廊下は一人分歩けるほどスペースを確保されただけで、両側に雑然と積み上げられたマンガと雑誌がいくつも山を作っていた。廊下の途中にはぐちゃぐちゃに丸めてある洗濯物、灰皿にこんもりと積み上がるタバコ、流しに溜まっていたいつ使われたか解らない妙な色をした食器……とにかく、梓の精神に異常をきたすには十分な破壊力を持つものばかりが目に鼻に飛び込んできたのだった。さらに、耕一の追い打ちする一言が、梓に火を付けてしまった。 「梓が来るって言うから片づけたんだぜ?」 はぁ〜、と完璧に呆れている溜息を一つつくと、くわっ、と何かを決意したように目を見開く。 「こんなので片づけた、なんていうなっ!」 一喝し、地元から約五時間の長旅も何のその、中途半端に開いた窓を全開にして、近くにあるものから整理しはじめたのだった。 始めるとさらに呆れた。この部屋には掃除機なるものが存在していなかったのだ。金が無くて食費に困ったとき、友達に千円で売ったらしい。また、箒やちりとりもゴミの中に埋もれていた。新品だったのは幸いかもしれないが、裏を返せば一度も使ったことがないこととなる。雑巾はかなり使い込まれているが、強烈な臭気をともなっていた。 「うぇぇっ……こんなのでよく気分悪くならないな……」 「男の一人暮らしなんてこんなもんだ」 「嘘つけっ! ……うわっ、野菜の皮、三角コーナーに溜まったままじゃないか! 臭いの原因はこれかよ、うええっ……何だぁ? 食器も殆ど割れてるじゃないか! まったく、ちゃんと片づけれてればこんなに無駄にしなくてもいいのに……」 ぶつぶつ言いながらもあんなにこんもりとしていた食器類が次々に整理されていき、見違えるように輝きを取り戻していく。 「こんなもんでいいか。じゃぁこれをここにでも……」 「あ! そこは……」 「ん? どうした耕一?」 どさどさっ! 「うわっ?」 「あっちゃぁ……」 「おいおい、何をこんなに詰め込んでるんだ? 危ないじゃないか……ん?」 食器類を入れるため何気なく戸棚を開けると、そこからいろえろな本やクリアファイルが落ちてきた。 その中のクリアファイルをつまむように拾い上げると、ペラペラとページを繰る。 「……ほほぉ……これは何かね? 耕一君」 普段の彼女は竹を割ったようなさっぱりした性格であるが、これには穏やかではなかった。その鋭い眼光は、誰しも萎縮させてしまうことだろう。耕一もご多分に漏れず、蛙と化してしまった。 「そ、それはだな……」 「よくもまぁこんなに切って集めて……こんなとこだけマメなんだな。んー、こんなのが好みなのかぁ? んまぁ……楓とか初音くらい慎ましやかな胸だこと、おっほっほっ。……でもまぁ、こんなのはゴミ袋直行だな」 いうやいなや、生ゴミの袋にねじり込む。あとから拾い上げて再生、なども許さない技だ。 「うわっ! 何す……」 「ん?」 「なんでもありません」 怖。畏。恐。お好みのトッピングでどうぞ。 ……そんなこんなでいろいろとあったが、さすがは梓である。作業はつつがなく進んでいき、ずぼらな耕一も見事に使い切った結果、3時間後、同じ部屋とは思えないほど整理整頓された部屋に生まれ変わらせることが出来たのだった。 「さて、これであらかた終わったな……ん? 耕一、なんで泣いてるんだ?」 「あまり綺麗になりすぎてな」 「へへっ、感謝しなよ。この礼はご飯一回おごり、くらいにしといてやるよ」 耕一としては思いきり皮肉った言葉だったが、梓の方は言葉通りの解釈をした。 さて、と梓は一言置いて、動いているのが不思議なくらい妙に変形した目覚まし時計をちらりとみやる。するとすでに終電も間近であろう時間だった。窓の外は薄暗い街灯が唯一の光となっていて、ぼんやりと辺りの建物が確認出来る程度の明るさしかなくなっていた。今宵は雲に阻まれているのか、月も見えない。 「そんじゃそろそろ帰りますかに?」 よっ、と口に出して身体を持ち上げ、そんじゃ、と軽く腕を上げる。 「何だよ、もう帰るのか? せっかく二ヶ月ぶりに会ったのに」 当然のように引き留めた。……もちろん、いろいろ含めた言葉である。だが、それを察知した上で、梓は悪いな、と口にした。 「今日は帰るよ。自分のアパートの整理もしたいし」 「そっか。せっかく来たのに掃除だけさせて、こっちは何にもしないで帰らせて悪かったな。……ありがとな。礼を言うよ」 先ほどの皮肉とは違う、心からの礼。 それに梓は、にかっ、と最高の笑みを持って返した。 「んじゃ、また来るよ。それまでにまた散らかすんじゃないぞ?」 「あぁ……善処するよ」 だめだこりゃ、無理だな。また掃除することになりそーだ。 ふ、と沸いたその言葉に、苦笑いを浮かべてしまいながらドアノブに手を掛ける。 「ん?」 ふとした、違和感。 古びたドアに新品のノブ。 たったそれだけのこと。 なのに――。 「耕一。このノブいつ取り替えたんだ?」 「あぁそれか? 二、三日前だよ。握ったらさ、錆びてたんだろうな、壊れちまった。ひしゃげて鍵が掛からなくなっちまってさ、仕方ないから買ってきたんだけど。それがどうかしたか?」 尋常ならざる数にのぼる割れた食器類。 ひしゃげた目覚まし時計。 そして、ノブを変形させた事実。 これらのことで、耕一はあの特殊な力を制御し切れてないことが推測された。 すなわち『鬼』の力。 その覚醒が間近であるということだ。 「……耕一」 「んー?」 「やっぱ今日、泊まってっていい?」 こうして。 梓は柏木家の【使命】を胸に、一緒に暮らすことを決めたのである。 クリアファイルの件や、台所の三角コーナーにとても綺麗に剥かれたニンジンやジャガイモの皮があったのも、少なからず胸に秘めて。 シャッ、シャッ、シャッ…… 「ふぅ」 畳の隙間にある細かい塵を箒で掃きながら、梓は溜息を一つついた。 あれから早二週間が過ぎている。 耕一は幾度か食器を握りつぶしたりして、力の制限が出来ないこともあったが、いまだ覚醒は始まっていない。 『鬼』の血同士が近づけば、血の呼応により覚醒は早まるはずであるのにも係わらず。 「でも……なぁ」 柏木家の【使命】。 もし、『鬼』の血が暴走したとき、その者を家長が抹殺すること、である。 これは柏木家現家長で、梓を含めた四人姉妹の長女である柏木千鶴の役目になる。 だが、隆山から遠く離れたここには当然千鶴はいない。必然と次女梓の役となる。 ……柏木は数百年続く『鬼』の血族。そして、梓や耕一はその末裔に当たる。 『鬼』というのは、あらゆる猛獣以上の力とスピード、人間並みの知能、弾丸では貫けないほど硬い皮膚、生肉を食いちぎる牙、手に巨大なかぎ爪を併せ持つ生き物と言えば解りやすいだろうかと思う。 それほど強大な力を持ち得ながら、この数百年による環境の順応なのか、それとも血が人間との度重なる交配により薄まってきたのか、今では『鬼』の力を表に出すことなく制御する事が出来、人間と同等に生活を送ることができる。……ただしそれは女性のみである。 『鬼』の男性は、かつて非常にどう猛で欲望が沸けば執拗に求めた。血が欲しければあらゆる生物を殺し、姦(おか)したいから女を拐(かどわ)かし気が済むまで姦し続け、腹が減れば全てを食らいつくす、生き物として解りやすいだけにたちが悪い生き物だった。そのたちの悪さが残っているのか、その血を引く男性は『鬼』が覚醒したとき、制御できる者と制御できない者がおり、奇しくも制御が出来ない方が多いのだ。 制御できる者は、女性と同様、今までと同じ生活を営むことが出来るが、制御できない者は、自我が崩壊する。欲望のままにすべてを殺しつくし、喰らいつくし、姦しつくすのである。 その暴走をくい止めるのが柏木の役割である。 柏木は『鬼』の血の純度を高く保ち続けており、他の血筋と比べ優れた力を有している。そのため、大抵の場合はあまり苦もせず【使命】を遂行できた。 だが、その柏木で暴走があればどうなるか。 その者の意志が強く、死を覚悟していれば、自殺、もしくは他の柏木に殺して貰うという手もある。しかし、殆どの者は生に執着し、覚醒成功に一縷の望みをかける。もちろんうまく行った例も多々あるが、最悪の結果を招くことも少なくなく、そのたびに多大な被害を出してしまう。 それを愚かに思う者もいるかもしれない。 しかし、命ある者なら、生きたいと思う心があり、家族を大事にする気持ちがあるだろう。いかに柏木でも、それは同じだった。 「あいつなら、きっと、大丈夫……大丈夫に決まってるさ」 そして、ここにも、望みを持つ者がいる。 明らかに覚醒の前触れをみせる耕一。だがそれに対し、打つ手は何もなく、ただ覚醒を待つだけというのが、実に腹立たしかった。 何気なく右手の平をじっと見る。 「でも、もしかしたら……この手で……」 はっ、とする。そのことを少しでも考えたら、もしかしたらその通りになってしまうかもしれない。 ぐっ、とそれを封じ込めるように拳を握り、ぶんぶんとかぶりを振る。 「だぁっ! ったく、当の本人はのほほんとしてんのに、あたしだけ考えてても無駄無駄!」 その当の耕一は、欲は欲でも『単位』という俗世間的なものを渇望していたため、今日は土曜日にもかかわらず大学へ行っている。 それにひきかえ、梓は土曜日に取りたい講義がなかったため、完全週休二日制になっていた。 「悩んでてもしょうがない、ってねぇ〜。さてと、今日の昼ご飯は何にしよっかねぇ?」 誰もいない中、頭を掻きながらそうつぶやき、箒を元の位置に戻す。と同時に、電話の規則的な音が鳴り出した。 「ん? 電話? 珍しいなぁ。はいはい、っと……はい、柏木です」 『あら? 梓?』 「げっ! ち、千鶴姉?」 電話の相手は、姉の千鶴だった。 『げ、とはずいぶんなご挨拶よねぇ、梓。それにどうして耕一さんの部屋に貴女がいるのかしら? ……ミシミシ』 「おい千鶴姉、受話器が軋んでるぞ。また壊すなよ? もったいないんだから」 『あら? またやっちゃった、てへ♪』 「ったく、てへ♪ っていう歳でもないだろ」 『……あ、ず、さ、ちゃーん、そんな悪い娘は月に代わって折檻よ? ちょっと後ろを見てみなさい!』 「なっ……携帯か?」 一気に温度が三度低くなった感覚に思わず後ろをふり向く……が、誰もいなかった。 『うふふ、後ろ見たでしょ? 引っかかったわね〜』 凄く嬉しそうだ。どうやら機嫌が直ったらしい。 「……あぁ、わかったから。で、用件は何だよ?」 『つれないわね。でも私も仕事の途中抜けて来てるし。用件だけ言うわ』 「あ〜、早く言ってくれ」 『楓がそっちへ向かったわ。その辺りを見学≠オたいんだって』 「!」 『よろしくね。じゃ。…………ガチャッ! ツーッ、ツーッ、ツーッ……』 「もしもし、もしもーし! ……だぁっ!」 ガンッ! 切れた電話に何度も話しかけ、それが無駄だと悟り、乱暴気味に受話器を置いた。 楓。梓の一つ年下の妹である。 ……そのことを直接言ったわけではないが、耕一に初めて抱かれたとき以来、梓を避けるようになり、多少鬱状態になってしまった。また、その時期は梓の作る食事すら口にすることを拒否し、末妹初音が梓に代わり食事を作るようになってしまったときもある。そのあと幾分改善されたが、必要事項だけの会話しかせず、もともと口数も少ないこともあり、ずっとぎくしゃくし続けている。上京する際にも、千鶴と初音は見送ってくれたのだが、楓は顔を見せることはなかった。 そこまで自分を拒絶していた楓がこちらへ向かっている……。それだけで不安に襲われたが。 「あ」 その場に合わない、間の抜けた一言が漏れた。 「そういえば、いつごろ、どこに来るのか全く聞いてないぞ……ったく、肝心なところが抜けるんだからなぁ、あの偽善者め」 ちなみに、偽善者とは千鶴のことである。なぜそう呼ばれるか、理由はよくわからない。……ということにしておく。 「考えてもしょうがないニ。ここまで五時間くらいだから……四時頃だろ。んじゃ昼ご飯のついでに三人分の夕ご飯の材料も買っておくとしますかニ」 考えをまとめると、棚から財布を取り出し、柔らかい日差しが眩しい外へと出ていった。 土曜は野菜の特売日、ということだけが、今日の唯一明るいニュースとなりそうだった。 買い物袋三つ。 手提げのビニールが目一杯に伸びきり、その重量を想像させるが、梓は軽々とアパートの階段を上がっていく。 「結構買っちゃったか……やれやれ」 袋のうち一つは今日の夕ご飯用だが、あとの二つは、ニンジン、タマネギ、大根、キュウリにゴボウ、その他も野菜ばかり。 いくら特売とはいえ、その種類は半端ではない。衝動買いは控えるようにしているつもりだったが、それ以上に今日の安さに突き動かされた。 「……日持ちするやつとなると、そうだな……カレーはこの前食ったし、筑前煮か。……たまには酢の物とか漬け物なんかもいいかもな。今は……っと、一時だから、四時には間に合う……な……」 腕時計から視線を前に向けたとき、思わず息を呑んでしまう光景があった。 そこには、ぽつんと。 耕一の部屋の前で立ちつくす一人の女の子が、いた。 今時珍しい、日本人形を思わせるおかっぱ頭に、白いサマーセーター、黒いハーフスカートとそれに合わせた靴下。うつむき続けている姿と併せ見るとまるで……何かを弔うような……そんなイメージさえ浮かべてしまう。 「あ」 その少女も、梓に気がついた。梓と正面に向き合い、わずかにこわばる唇をかすかに上げ、寂しそうに微笑んだ。 「久しぶり、梓姉さん」 「あ? あぁ……久しぶりだね、楓……元気にしてたか?」 実に一ヶ月ぶりに見る楓の姿に緊張に似た感情を持ってしまったのか、思わず月並みな質問をしてしまう。 「うん……最近ちょっと体調悪かったけど、何とか持ち直した」 「そっか……そりゃ良かった」 「……」 「……」 予想以上に早い楓の到着に少なからず動揺し、頭の中は真っ白になっていく。何を話せばいいんだろうか、とそればかりが頭で繰り返されていった。だが、意外にも楓が話しかけてくる。 「耕一さん……まだ帰ってきてないんだ?」 「あ? あぁ……あいつはまだ大学で講義受けてんだろ。三時頃にならないと帰ってこないよ」 「そう……それで、それを知ってる梓姉さんはどうしてここにきたの?」 「え、あ、その……」 同棲中であることは、千鶴には感づかれていそうだが、家族には秘密、ということになっていた。 「今日は野菜が特売で、買いすぎちゃってさ。いつも飢えてる耕一に飯でも喰わせてやろうかな〜って思って。あはは」 乾いた笑いに、苦しい言い訳。しかし楓は、そうなんだ、と特に興味がなさそうに答えた。 だがそれこそ、全て見透かした上での答えだということは、姉妹でなくても気がつくだろう。そうでなければ、 「それで姉さん、中に入らないの?」 とは云われないだろうから。 ……部屋に入って、楓をこたつに座らせる。こたつは季節はずれでもなんでもなく、単にこれしかテーブルめいたものは無いのだ。 梓は緑茶を用意し、楓に差し出した。梓自身は緑茶、紅茶、ハーブティーなんでもござれだが、日本茶好みの楓に合わせたチョイスだ。緑茶は耕一も好みのため、使われているのは耕一自身が選び抜いたこだわりの茶葉である。……ただし百グラム三百円以内の条件付きで。 一口飲んだあとの表情からすると、楓にも好評を得たらしかった。 そしてその後の会話に窮するかと思ったが、意外にも、楓の方が積極的に話しかけてきた。 大学はどうなのか、教育学部では何を学ぶのか、梓にとって楽しいところか、早くも目立つ人はいたか、何かサークルには入ったのか、バイトはしているのか……。 そんな話を矢継ぎ早に繰り出していった。……梓に会ったときの気まずくならないような会話をシミュレートしていたのかもしれない。 結局、耕一が来るまでの一時間は、そんな世間話ばかりしていた。 ガチャッ! 何の前触れもなく扉が開く。耕一だった。 「ただいま〜……ぁん? 梓ぁ、誰か来てるのかぁ?」 靴を脱ごうとしながら、梓とは別の靴が並んでいたのに気づいた耕一は、だるそうな、溜息混じりの言葉で聞いてきた。 「おぅ、おかえり〜」 「……おかえりなさい、耕一さん」 「ん? ……楓ちゃんか!」 その別人のか細い声を鋭く聞き取り、さっきのだるそうな様子とはうって変わって、どたどたと長くもない廊下を走ってくる。そしてひょい、と首だけ出し、改めて楓の姿を確認した。 「お〜っ、よく来たなぁ〜、楓ちゃん!」 「……ふふ、お久しぶりです、耕一さん」 「まったく、慌てないでも楓は逃げないよ」 梓は呆れ声で、先ほど継ぎ足したお茶を少し啜る。出が悪く、お茶の味が薄くなってしまったようだ。 「耕一、緑茶でいいか?」 「あぁ」 確認を取ってから立ち上がると、台所へ立ち、急須から茶葉を捨て入れ直す。 その間に耕一はコートを脱いで、楓が正面になるよう、今まで梓が座っていたところに座った。 「いやー、でも楓ちゃん、来るなら来るって言ってくれればいいのに。どうしたんだい突然、こんなところまで?」 「……少し、驚かしたかったんです。今日来たのは、耕一さんと梓姉さんに会いに来たことと、出来ればこの辺りを案内して貰いたいんですけど……」 「はは、楓ちゃんの頼みならいくらでもOKだよ。梓はどうだ?」 耕一の左側に座って、タオルを敷いたお盆にひっくり返っていた耕一用のごつい湯飲みを元に戻し、ポットから急須に湯を入れ、三、四度回すと、とぽとぽと湯飲みに注いで、耕一に差し出した。 「はいよ」 「お、サンキュー……アチチ」 「まったく、あたし以外だと調子いいんだからな。……でもま、せっかく来た楓お嬢様のために、明日は一肌脱ぐとしますかに。そんじゃ、今日の夕ご飯は材料も奮発して、腕によりをかけて美味しいもん作るかなっ」 その言葉通り、その日の夕食は、安い材料を美味しく作り上げるいつものような調理とは違う、良いものをより美味しく作り上げた逸品ばかりで、改めて料理の腕を実感した。 耕一も、梓も、そして楓も、満足げに美味しさ溢れる料理に舌鼓を打ったのだった。 ……そして、夜。耕一の部屋には布団が二つしかないこともあり、梓は楓を連れ、二週間ぶりに自分のアパートに戻ることになった。 朝ほどではないが、身体にしんしんと寒さが染みこんでくる。緩やかに吐き出す息はわずかに白く、夜の街は冬の名残を充分に残していた。 空を見上げると、雲一つない空。しかし残念ながら、いつもなら素晴らしい星の瞬きは煌々と輝く月の光によってかき消されてしまっている。だがその月は、この地を踏んでから類を見ないほどの冷たさ溢れた美しさをもっていた。 「はー、今日はまた月が綺麗だねぇ〜」 「……そうね」 梓のアパートまで、あと数百メートル。会話がとぎれた際に何となく呟いた言葉に、楓が反応した。そしてゆっくりとうつむくと、問いにくそうに、いつもよりさらに小さな声で聞いてくる。 「……姉さん」 「ん?」 「夏の終わりからずっと?」 「何が?」 「耕一さんと……その、恋人同士になったのは……」 「あぁ、そうだな」 素直に返事をした。嘘をついても始まらないし、何よりここまできて楓に隠し事をすることが許せないからだった。 「そう」 予想通りだったのだろうか。その返事はうなだれることなく、かみしめるような一言だった。 ……それきり会話がとぎれ、無言のままアパートにたどり着いた。耕一の部屋の合鍵とともに括られている自分の鍵を差し込む。今まで全然使っていないので、多少不安があったが、鍵穴は何のことはなく素直に回ってくれた。 「姉さん」 「ん? 何?」 「私……」 その表情、その雰囲気、そしてそれ以外≠ナも心情が伝わってきた。そこまで言って言いにくいのか、もじもじとし出す楓に代わって、自分が答えてやる。 「わかるよ。楓も耕一のことが好き、ってことがいいたいんだろ?」 「あ……」 「楓だけじゃないよねぇ。千鶴姉も、初音も。姉妹揃って、耕一に好意以上の感情を持ってることくらい、いくらあたしでもわかるさ。まったく、あのバカも幸せ者だよねぇ。美人姉妹全員にそういう感情を寄せられてるんだからさ。まったく、あんなだらしない男のどこがいいのかね? でもま、あたしも人のこと云えないよねぇ、ははっ」 やれやれ、と言いたいのだろう、両手を軽く上げて、溜息をつきながらかぶりを軽く二三度振る。 「……」 「でもさ、そんな中であたしが耕一と恋人になった。だから……」 ふぅ、と一息をついて、緩やかな笑みを浮かべると、ゆっくりと、楓を見つめて続けた。 「あたしが、誰よりも耕一を愛してる。これだけは自信もって言うよ……そうじゃないとみんなに悪いだろ?」 楓は何も言わず、うつむきながらぎゅっとスカートを握りしめる。 それが何を意図しているのか……梓も少しは勘づいたが、全容ではなかったのだった。 「さて、いつまでもこんなとこにいちゃ風邪ひいちまう。中に入ろうぜ」 「……そうだね」 ずっと付けたままの鍵を抜き、ドアノブを回す。夜風に晒され冷たくなったそれは、梓に何かを警告しているようにも受け止められた。 部屋にはいると、すぐ風呂に湯を張りだす。もしかしたら水が凍結していたり、錆びていたりしていないかと心配だったが、蛇口をひねると、それが杞憂であったことを教えてくれた。 長旅で疲れたのだろうか、楓は先に風呂に入り、梓が出てくるころにはすでに布団を敷いて寝静まっていた。 久しぶりに見る楓の寝顔に、懐かしさと愛らしさを感じながら、おやすみ、と呟いて部屋の電気を消す。明日はどこに行こうかと、漠然と考えをまとめるうちに、いつの間にか寝入ってしまった。 ……しかしその後、子の刻が過ぎ、丑の刻がやってこようかというとき。 パチッ、と楓の目が突然開く。 灯りもつけず、音を立てずに起きあがると、テーブルの上に置いてあった鍵を掴み、静かに外へ出る。 胸に秘めたある決意を持って。 ギィッ……バタン 合い鍵を使い、部屋に入る。静かに開閉したつもりでも、立て付けが悪いのか、とても忍び込んでいるとは思えない。だが幸いにも、この家の持ち主は気が付かなかったようだ。 勘づかれないよう、ゆっくりと廊下を歩いていく。それでも幾分ギィギィと踏みならす音が響く。楓にとってそれは耳鳴りがしそうなほど大きく聞こえるのだった。 だが、それよりも音量が大きい、雑音混じりの寝息が聞こえてくる。 毛布と布団二枚で温もりを逃さぬようくるまり、唾液を垂らしそうなほど口を緩めた耕一の寝息だ。 「……」 梓に確認を取らなくとも解っていた。 あの最後に会った晩夏の日に。 梓は耕一を。耕一は梓を。 互いが互いの愛を成就させていたことは。 『鬼』は、信号のようなもので互いの意志を伝えあうことが出来る。想いが強ければ強いほど、それは強烈に伝わるのだ。 そしてあの晩夏の夜に発せられた二人の想いは、楓に、千鶴に、初音に、それぞれ強烈に飛び込んできた。それから、千鶴も、初音も、なんとかその事実を受け入れることになるが、楓だけはそれを受け入れることが出来なかった。 もちろん、耕一に対する特別な心情もある。だが、それ以上に、エディフェルの記憶が、楓に大きな揺さぶりを掛けてくるのだ。 エディフェルとは、数百年前……現在『鬼』と呼ばれるもの達が異星から宇宙船の故障により地球……日本のとある島に降り立ったときに、皇族四姉妹の一人として同乗していた女の名前である。 彼らは、地球の人々をあくまで殺しを楽しむための畜生と考え、同時に誇りも高く、彼ら以外のものは生きる資格無しとさえ思っていた。 しかしそんな中、次郎衛門という、地球の者の男に恋をし、船から飛び出してしまったものがいた。それがエディフェルである。 結局彼女は数ヶ月後、同族の者に粛清として糺されるが、その意志は他の三姉妹に伝わり、現地人との共存を説くようになる。 結果、エディフェルの姉二人も処刑されるが、残された末妹が逃げだした。そのとき、エディフェルの無念を恨み続けていた次郎衛門がその末妹を利用、『鬼』達が使う武器を手に入れ、『鬼』を末妹を残し殲滅させた。 次郎衛門はその後、その末妹と子孫を残すことになる……それが柏木をはじめとする『鬼』の血の始まりである。 ……そしていま。エディフェルの生まれ変わりとして楓が生まれた。そして次郎衛門の生まれ変わりが耕一なのだ。 エディフェルの意志を色濃く受け継いだ楓は、それ故に強く次郎衛門の生まれ変わりである耕一と結ばれることを切望していた。しかし現在、姉の梓が耕一と結ばれている。 それ以来、楓とエディフェルの意志が混同しあい、苦悩の日々を送ることになる……が、今になり、ある方法を思いついた。 エディフェルの記憶が早い時期に目覚めた楓とちがい、耕一は次郎衛門の記憶を全く取り戻していない。 楓にその記憶が芽生えたのは、楓が『鬼』の力を得た日なのだ。 つまり耕一が『鬼』の力を得れば、記憶も戻るのではないか――。 危険きわまりない賭けだということはある程度承知していた。耕一の父であり楓の叔父、賢治も、妻を巻き込み自殺という最悪な末路を辿っている。 ……だが、楓の中でエディフェルの強い次郎衛門に対する意志がその危険さを曖昧にしつつあった。必ず、耕一が力を制御し、記憶も取り戻すだろう、と何の根拠もなく信じてしまっていたのだ。 「耕一さん……」 『鬼』は本能的に、同族に強く反応し、なま暖かい血を求め、異性に対しどん欲である。 なら、この三つを重ねてみてはどうだろうか。 下唇を強くかみ切る。すると、そこから血がじわりとにじみ出てきた。口に広がる錆びた鉄のような味わいに、断行する意志を後押しされる。 ある程度経ったところで、自分が持つ『鬼』の力をゆっくりと解放し、耕一の顔を両手でそっと包みこむ。場にそぐわない、ゆるみきった耕一の寝顔に、楓は柔らかく微笑んだ。 そして――。 そのままゆっくりと、耕一の唇に楓の唇を押し当て、口に広がる自分の血を耕一の口に含ませた。 「ん……?」 さすがにここまですれば耕一も目覚めた。そして寝ぼけ眼で暗がりにある一人の影を見つめる。 「誰だテメェ! ……あれ? 楓ちゃん?」 「……」 「どうやってここ……にっ?」 どくん 「か、かえで……」 どくん、どくん 「な、んだ? どう、し……!」 明らかに自分が変調をきたしている。それは耕一自身理解できた。 ヤバイ! ヤバイぞ! と身体が懸命に訴えていることはわかっている。 だが、どうしてこんな事になっているのか全く理解できていない。 心臓麻痺のように痛烈に胸が痛いわけでもない、脳内出血のように強烈な頭痛が襲うわけでもない。ただ、心臓は常識では考えにくいほど脈打ち、脳が今までに無かった出来事に対処し切れていないことは解る。 「か……ぐ……グォ……」 言葉すらしゃべれなくなってきた。目に入ってきた手を見ると、二十年以上付き添ってきた自分の手では無くなっていた。色は赤黒く変色し、指が自分の二倍の長さになり、さらにその長さを上回るかぎ爪が生えていく。 思考が出来たのはこの辺りまでだった。 人間誰もが持つ感情の抑制機能が薄れていく代わりに、あふれ出る欲望が耕一を支配していく。 「オ……オ……ヲ……ヲヲ……」 渇いていく。全てが渇いていく。 なら単純だ。渇いたものは満たさなければならない。 雑魚と等しき人間共を狩り、血肉を切り裂きたい……! 強き者と戦い、その魂が美しく散り逝く様を見たい……! 女の白く柔らかい肌に美しい血の朱でまだらに染め、廃人になるまで姦したい……! こんなことを考えてる暇も惜しいほど渇いていく。早く満たさねばならない! ガシャン! 窓の方から、ガラスが壊れる音がする。楓が耕一を気づかせるために、ガラスを一枚割ったのだ。案の定、耕一は音に敏感に反応する。 そのとき、一瞬だけ楓の『鬼』の力を全開した! 「ヲヲヲ!」 素晴ラシイ! 強大ナチカラ! 魂モ美シイニ違イナイ! 白ク透キ通ルヨウナ肌! 姦ストキノ恐怖ニ引キツル顔ヲ想像スルダケデ興奮スル! 間違イナイ! 狩レバ一気ニ満タサレル! 「オオオオオオッ!!」 吼えた。あまりの歓喜に吼えずにはいられなかったのだ。 バッ! その吼えている間に、楓は窓から逃げた。 「ハッ……!」 ソウダ、逃ゲロ。ソノ方ガヨリ面白イ! 興奮スル! にま、と笑う口元からよだれを垂らしながら逃げた窓から周辺を眺める。が、すでに楓の姿は無かった。 しかし、数十倍に鋭敏になった鼻が、わずかな楓の残り香を感知することが出来たのだ。 「グフフ……」 今から行おうとしている行為。それだけで、興奮は最高潮に達しようとしていた。 |
……To Be Continue……
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