WHITE ALBUM SS

なごりゆき



 トースターからはパンの焦げる匂い、コーヒーメーカーからは香ばしい薫り。それらが同時に漂ってくる。1分45秒前後で焼き上がるそれを取り出すときには、先に用意しておいたメーカーにちょうど一杯分のコーヒーが出来上がってくる。
 私のいつもの運動量からすると、朝食にはこのくらいが適当と思われる量だ。倭王さんより頂きました!! クリックで原寸大。
 見る必要もないけれど念のため時計を見ると、6時52分。いつもの朝と同じだ。
 今日のスケジュールからすると、自宅を7時55分に出れば、ある程度のトラブルがあったところで予定に充分間に合うはず。
 そう考えながらいつものようにテーブルにつき、朝食を摂ることにする。
 パンをひと千切り口に運び、コーヒーを軽く啜り、一息つくと、なんとなく昨日の出来事を思い出してしまう。
 昨日は、由綺さんにとって……ひいては私にとっての一年の総決算とも言うべき『音楽祭』が盛大に行われた。
『音楽祭』は結局、理奈さんが最優秀賞を獲得したことには違いないが、私が今までマネージャーをしてきた中、由綺さんにとって昨日ほど会心のステージは無かったと思う。
 あくまで私からの視点ではあるが、あんなに実力差があったはずの理奈さんをわずかながらも上回っていたようにも思えた。
 でも、審査員は理奈さんに軍配を挙げた。
 あのような場合には、たとえ今年の活躍がめざましくとも、所詮新人の由綺さんより、今までの実績がすこぶる高い理奈さんに勝たせておけば、誰にも文句は言われない……そう思ったに違いない、と邪推してしまう。
 由綺さんは人一倍の努力家であることは間違いない。けれど、本番に強い訳ではない……が、あれだけの力を出せたのはなぜだろう。
 ……それこそ邪推になる。
 由綺さんにとって、藤井さんがどれだけかけがえのない存在だったかがはかりしれた。
 由綺さんと藤井さんの恋愛は、ある一定の線引きをおいてしかるべきだった。いえ、由綺さんの将来のためにも、芸能活動に専念するためにも、理想の恋愛観と矮小な見識でしか由綺さんとの関係を見つめることしかできない彼と離れることが正解と思えた。
 ……それなのに……。

 ピンポー……ン

「?」
 呼び鈴が鳴る。時計を見上げると、7時を回ったばかり。誰かが来る予定も無いはず。
 妙に思いながらも、セキュリティ用に設置されている入口を映すディスプレイを見てみる。するとそこに見知った顔が寒そうに震えながら手を息で暖めている姿があった。
「由綺さん!?」
『はぁ〜……っ寒……あっ弥生さん、おはようございます』
「今開けます!」
 私は慌ててアンロックキーを押すと、由綺さんは急ぎ足で私の部屋に飛び込んできた。そして、私の顔を見ると、満面の笑みを浮かべる。
「あらためて、おはようございます。弥生さん。今日で3月なのにまだ寒いですよね」
「おはようございます、ではありません。どうしてこんな時刻に……それに、今日はまる一日オフではありませんか」
「ふふ、弥生さんって、毎朝6時半に起きてる、っていうから、本当かな、って思って。スタードキドキまる秘報告の寝起き訪問、マネージャー編、ですよっ」
 そんな無邪気な言葉に思わずため息をついてしまう。
「こんな寒い中で……風邪でも引いたらどうするんですか。少々お待ち下さい」
 私はタンスの中からコートを取り出すと、由綺さんの肩に掛けた。
「あ、ありがとう、弥生さん。えへへ、暖かい……」
 やはり私のコートは大きすぎるらしく、腕を精一杯伸ばしても手が出せないらしい。コートに引っ込んだままの手を顔に寄せて、暖かいのか、にこりと微笑む。
 そんな仕草や安心した笑顔に、彼女に対し好意以上の大きな胸の高鳴りを感じた。
「弥生さん」
 手はそのままで、突然真剣な表情をする由綺さん。はい、と私も丁寧に返事をする。
「……ごめんね。最優秀賞、取れなくて……私たち二人の夢、叶えられなかったね……」
「いえ。昨日の由綺さんは大変素晴らしいと思いました。失礼かもしれませんが、理奈さんよりも良かったと思われます」
「……ありがとう、弥生さん。そう言ってくれて。でも……」
「はい?」
「弥生さんや英二さん、スタッフのみんなに支えられて、その力添えがあったから、私はあそこへ立てたのに……私……ステージの上で考えていたことは……冬弥君に……冬弥君だけに、今の私が出来るすべてを見てもらいたい……それしか考えていませんでした」
「……」
「それも、謝らないといけないよね……ごめんなさい」
「いえ。愛する人のために頑張ることが出来ることも、素晴らしいことだと思いますよ」
 それらしいことを述べてみる。由綺さんはこういった台詞が好きでもある。
 その言葉に由綺さんはいかにも彼女らしい微笑みを浮かべたが、すぐ真剣な顔に戻る。
「自分の夢を叶えたいから頑張っていることにも違いないんだけど……冬弥君がいないと、私……ダメなのかも、しれない……。冬弥君が私を見てくれている、私を愛してくれている……そう強く信じることが出来たから、あんなに頑張れたんです」
 どうして、彼女は、あんな男のためにそれほど一生懸命になれるのだろう。どこにでもいる、取るに足らない、その辺に転がる石ころのような彼に、美しく輝き放つダイヤのような由綺さんがどうしてそこまで必死で彼との愛を求めるのだろうか……。
 それが理解できれば、私に振り向かせることが出来るかもしれないのに。
「どうしてそこまで、藤井さんだけ見つめることが出来るのでしょうね」
 思わず愚問を口にする。けれど、由綺さんは真面目にすぐ答えた。
「えっと……、冬弥君がそばにいてくれるときが、一番安心するから、かな、やっぱり。理屈とかは考えたこと無いですよ。弥生さんは、そういった人っていませんでした?」
「私は……」
「……あ! 弥生さん! 外!!」
 言う途中での由綺さんのその言葉に後ろを振り向く。すると、もう三月だというのに、雪がちらちらと降り出してきた。由綺さんは、さも楽しそうにベランダに飛び出し、雪の降り行く様をじぃっと眺める。それにつられるかのように、私もベランダに出た。
「ふふっ、今月は二人でいればいいことあるかもしれませんね」
「どうしてですか?」
「だって、三月って言えば『弥生』じゃないですか。やよいにゆきって、単なる偶然とは思いません」
「……そうかもしれませんね」
 春とは思えないくぐもった空の中、名残惜しそうに雪がきらきら降り注ぐ。すっと手を出すと、ひらひらと結晶が舞い降りるが、私の手がいかに冷たいとはいえ、幾分ある体温のためにすぐ融けて無くなってしまった。
「やはり、手元には残せませんね」
「あはは、当たり前だよ〜……あ! そういえば弥生さん。私は……の続きは?」
「……そうですね。では、由綺さん、にしておいてください」
「あ〜っ、ずるいんだぁ〜」
 そういいながらも微笑んでくれる由綺さんに曖昧に微笑みながら手のひらを見ると、先ほどの名残雪により出来た水滴がゆっくりと、すり抜けるように落ちていく。
 やはり、やよいにゆきは、相容れないものなのか……。
「……由綺さん。風邪をひくといけません。中に入りましょう」
 そういいながら空を見上げると、まだ、雪は降っていた。
 ……少しは、積もってほしい。
 そう思いながら、ガラス戸をからからと閉めた。

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