WHITE ALBUM SS

Do I have to forget you?




 からんから〜ん

 お店のシックな雰囲気、それに絶妙にマッチしたゆったり流れるクラシック。それとの調和がそうさせるのだろうか、ここのカウベルは何故か耳に心地よく残る。
「ふわぁ……あ!? いらっ……、あ……美咲さんか。こんちは」
 この時間、相変わらず『エコーズ』は閑古鳥が鳴いている。
 その中でつまらなそうにカウンターに立って、何もすることが無かったのだろう、ここでバイトしている藤井君は大欠伸を噛みしめながら、頭をポリポリと掻いていた。
「ふふ、こんにちは、藤井君」
「恥ずかしいとこ見られたなぁ……タイミング悪いよ、美咲さん」
「大きな欠伸してたね。顎がはずれるくらい。ふふっ」
 こみ上げる笑いを止めることが出来ず、悪いなぁと思っていながらも吹き出してしまう。
 藤井君は、まいったな、と顔一杯に表現しながら、ご注文は?と聞いてきたので、ウィンナーコーヒーをお願いした。
 実はウィンナーコーヒーは日本風にアレンジしたコーヒーで、実際ウィーンではアインシュペンナーという名称で親しまれている、と得意満面に藤井君が言っていたことを思い出す。……実はその前に七瀬君から同じ事を聞いていたことを言うと悔しそうな顔をしてたっけ。
 一滴一滴、大事そうにドリップされているコーヒーを受け止めている器を取り出し、適量をカップに注ぐ。そして、砂糖と、七瀬君曰く『どこにでもある』、でも、私としてはこのコーヒーに絶妙にマッチしていると思うホイップクリームを入れた。
「はい、お待たせ、美咲さん」
 藤井君から、出来上がったウィンナーコーヒーが差し出される。
「ありがとう、藤井君、頂くね。あ……でもごめんね、私だけ……」
「えっ? 何言ってるの、美咲さん。お客様なんだから当然だよ」
 でも、一人だけで飲むのは気が引けたので、藤井君にも、私がおごるから一緒に飲んでくれるようにお願いした。
 藤井君は仕事中ながらも一緒に飲んでくれたけど、そのコーヒーは私を含めマスターからのおごりになってしまった。
 ……余計申し訳ないことをしてしまった。
「あれ?」
 コーヒーを二、三回口に運んだ後、ふとしたことに気が付いた。
「? どうしたの、美咲さん?」
「あまり寝てないの?」
「……ん? やっぱりわかる?」
「わかるよ。寝ていないときの典型的な顔してる」
「どんな顔なの?」
「……具体的には、答えにくいんだけど……」
 ちょっと典型的すぎるから……。そのまま言うのは悪いような気がする。
「俺も解るよ」
「?」
「ひどい顔をしているけど、ちょっと言いにくいなぁ、って思ってたんじゃない?」
「えっ? そ、その……」
「はは、そういったところも可愛いな、美咲さんは。正直に言ってくれた方がいいのに」
 ……こういうときの藤井君って、本当に、意地悪……。
「本当にどうしたの? 私で良ければ、相談に乗るけど……」
 そういうと、先程までのおちゃらけていた雰囲気はどこへいったのか、わずかに表情が翳る。
「あぁ……大したことじゃないんだ。要は気の持ちようだからさ」
「うん……でも、やっぱり心配だよ」
「……」
「そんな元気がない藤井君は、見たくないな……」
 いつも元気で。ちょっと意地悪で。そんないつもの藤井君じゃないと、やっぱり落ち着かないし、心配事があるのなら相談に乗りたい。
 ……本当に、そんな気持ちからだった。



 ばぁんっ!!

 机がけたたましい音を立てる。私が机を思い切り叩いたからだ。
 その反動で立ち上がると後ろを振り向いてそこから逃げ出した。
 ……もう、藤井君の顔が見ていられなかったから。
 あちこちの机や椅子が私の身体にぶつかっている気がする。
 節々がすれているのか、ちょっと痛い。
 でも逃げなくちゃいけないと思った。
 後ろから声が聞こえる。
 けど振り向けない。
 私は喰いかかるようにドアノブを掴んで思いっきり引っ張り、勢い良くドアを開ける。
 かららん!!
 けたたましく響くカウベルにさらに強い自責の念を投げかけられながら懸命に走る。

 どうして?
 どうして私は……!!

『……そんな元気がない藤井君は、見たくないな……』
『……』
『悩みなら、私で出来ることならなんとかしてあげたいし……あ、でも、もしどうしても言いたくなかったらいいんだけど……』
 ひょっとしたら、お節介で余計なことに足をつっこんでいるだけかもしれない。そう思い、聞くのを控えようかと思ったけど、意を決したのか、藤井君はゆっくりと紐を解くかのように話し始めた。
『うん、それじゃ聞いてもらおうかな? ちょっと情けない話なんだけどね』
『……』
『実は……由綺のことなんだけど……』
 そうじゃないかな、と思った。
 藤井君は勉強や生活のことでここまで落ち込むことはないだろうし、もしあったとしても、それを笑いを誘うような言動ではぐらかしてしまうような子だ。
 そして、由綺ちゃんのことならなんとか相談に乗れるかも、とも思っていた。
 由綺ちゃんのことは私も良く知っているし、なによりも由綺ちゃんが私に相談をするときは藤井君がらみのことが大半だったから、彼女の藤井君に対する気持ちもなんとなく理解できる。
 付け加えると、女性側の意見を求めるなら、一応私も女だし、アドバイス程度なら出来ると思った。
 でも、そうじゃなかった。
『この前、家に来てさ。……もうすぐ歌手デビューするらしいんだ』
『えっ? あ、そうなんだ。……由綺ちゃん、あんなに頑張ってたものね。やっと夢を叶えられるんだね。今度会ったらおめでとう、って言ってあげなくちゃ』
『……うん』
 すると、あまり嬉しくなさそうに、中途半端に頭を下げる。
『どうしたの? 由綺ちゃん、やっと夢を掴んだのに嬉しくないの?』
『なんとなく……さ、俺からどんどん離れていくような気がするんだ』
『……』
『今までだってそんなに自由に会えるわけじゃなくて。……歌手デビューすれば今以上に束縛されて……それが時間がとれないほど忙しい、って頭では理解してても、ね』
『……』
『由綺を信じなくちゃいけない、そう思うと、余計に……。?』
『ん? どうしたの……あ……っ!?』
 藤井君の後ろにある、様々な装飾の中の鏡。それが、私を映しだしていた。
 ……微笑っている、私が……。

「はぁ、はぁ、はぁっ……」
 なりふり構わず逃げてきてしまった。
 息が切れてきてしまい、ペースが極端に落ち、ついには足を止めてしまう。
 中腰になり、手を膝において、息を整えながら左右を見渡すと、いつもはるかちゃんと良く来る公園まで気が付かないうちに辿り着いていた。
 今は、幸いにというか、誰もいなかった。
 顔に手を押しつけ、さすってみる。
 この顔が、微笑っていたんだ。
藤井君はあんなに真剣に話をしていたのに……。
 どうして? そんなこと……私は……。
 ……知ってる。自分のことだもの。私は……私は……っ!
 嬉しかったんだ!
 由綺ちゃんが藤井君から離れていくことが!!
 解ってる! でも隠しきれなかった!
「うぁぁっ!」
誰がいるかもわからないのに意味もなく叫んだ。
 でも、もし誰かいたとしても構わなかった。何か叫ばないと気が狂いそう。
 でも、逃げてもどうにもならない。もう言葉は取り戻せない。
 当たり前のことを頭で何回転かさせると、幾分落ち着いたので、ベンチに座って腰を下ろす。
 心の中に閉じこめていたもの。それが藤井君の言葉でまたこみ上げてきた。あの時の私の……。



『間もなく、電車が参ります。危ないですから、白線の内側までお下がりください』
 それは、私が高校二年の、なんでもない朝。
 私は、あまり人混みが好きでないので、部活があるわけでもないのにいつも早い時間に登校していた。
 そのときも座る場所が多少在る程度の混雑だったので、空いてるところに腰を下ろした。
 高校がある蛍ヶ崎までは電車で30分程度と、ちょっと遠いとは思ったけど、先生からの意見を頂いた上で進学校である蛍ヶ崎学園高校を選んた。進学校だけあって勉強に関してはかなり厳しいけど、基本的には自由な校風で、私としては気に入っている。
 ……30分と言っても、座っていられるわけで、本を読んでいるだけであっという間に時間は過ぎてしまう。そしてその日も友達から薦められた本を読んでいた。
 いつものように気付かない内に電車内は人が溢れてくる。
「あ……」
 その中に、80歳は越えたように見えるおばあさんがいる。
 足腰が弱いのか、杖をつき、吊革にも掴まれず、大儀そうに椅子のパイプのところに掴まっている。でも、誰も席を譲らなかった。優先席に座っている人も。
 解らない。なぜ譲らないんだろう?
 もしかして、おばあさんに『私は若い』なんて邪険に扱われるのを嫌がっているのだろうか?
 どちらにしても声をかけてみよう。
「「おばあさん、座りますか?」」
「「え?」」
 私と同時に隣の人が声をかけた。同じ制服を着た男の子。声が重なってしまいお互い顔を見合わせてしまう。そして、お互い、吹き出してしまうのだった。
 ……結局、二人で席を立ち、おばあさんに席を譲ると、男の子は私に席に座るように言ってくれたけど、私は申し訳ないから、と断っていた。その間に、別の高校の女の子が座って、化粧道具を取り出し、じっとコンパクトを見つめはじめた。
 そのときだ。男の子が吊革に掴まってから私の方を見て、
「……えっと、澤倉美咲先輩、だよね?」
 と、初対面のはずの私の名前をズバリ言い当ててきた。
「え? あ、はい……確かに私は澤倉ですが……でも、どうして私の名前を知っているんですか?」
 そう言うと、悪戯っぽく笑いながら、蛍ヶ崎学園で澤倉美咲を知らない人はいない、と言われてしまった。何故か目立っているらしい。その男の子は良い意味で言ったらしいけど私としてはあまりいい気持ちはしなかった。
 ともかく、それをきっかけとして男の子が話しかけてきた。
 正直、人との会話はどちらかというと苦手の部類にはいるが、その男の子とは初めて会ったとは思えないほどすんなり、そして気軽に会話することが出来る。蛍ヶ崎がいつもより早く近づいてくるように思えるほど楽しかった。自分自身も不思議なほどに。
 ……それが、藤井君との出会い。今でも、雰囲気からそのとき会話したことまで簡単に思い出せる。……ずっと、留めておきたい、ことだったから。
 それからは、学年が違うし、出逢った日はたまたま藤井君が日直だったから早く出ただけだったりで、そんなに頻繁に会えるというわけじゃなかったけど、お互い見かけたりすると、藤井君も、そして私も声をかけたりするようになった。
 二学期に入って、会う機会も少しずつ増えるようにしていった。たまに藤井君とお買い物へ出かけたり、程なく藤井君を通じて七瀬君やはるかちゃんと知り合い、4人で集まってどこかへ行くこともあった。
 このころからだ。友達に『あの後輩の子とつきあってるの?』って言われるようになったのは。
 あまり言われなれないこの言葉に、少しどきっとしたけど、確かに彼に惹かれているような気はしていた。
 そうなのかもしれない。そうしたいのかもしれない。
 そんなもやもやとした中途半端な気持ちが芽生えていた、そのときに。
 私の前にあの娘が現れた。
 森川由綺。
 二年生でも一時期話題になったほど、一年生の中でひときわ輝いていた、どの学校でもあるだろう、学年のアイドルのような……それこそ、私と正反対のような娘。
 そんな娘が、昼休みになってすぐ私の教室に入ってきたのだから、男の子はそれこそ過敏な勢いで騒ぎ立てた。でも、それには見向きもせず、緊張した面もちで私の方に一直線に歩いてくる。
 それまでは、私は顔は知っていても、面識もない。敢えて云うなら、藤井君と席が隣同士ということを聞いたくらいだった。
「あの……さ、澤倉美咲先輩……ですよね?」
 でも、彼女の目的は私だった。
「え? えぇ、そうですけど。何か?」
「私、えっと、あの……その、は、初めまして。あの……そう、一年の森川由綺っていいます。あの……それで……その……お話が……あ、それで……ですね……」
 一生懸命話そうとしているけど、どうにもまとまらないようだった。上級生の教室で緊張しているのかもしれない。
「ここでは、言いにくい話?」
 そう言ってみる。するとすぐぱっと顔が明るくなった。
「あ……そうですね、はい。それで……」
「じゃぁ、とりあえず教室から出ましょうか」
 周りを見ると、教室にいる全員の目が私たちに集中していたので、私も気恥ずかしくてあまり耐えられそうに無かった。
 ……人気のないところがいいと思い、近いことからも屋上に行くことにした。三年生の教室が並ぶ四階の上が屋上なのだが、ひょいひょいと登っていく由綺ちゃんと比べ、私はゆっくりと登ることしか出来ない。階段で転んだことがあったりした。トラウマかもしれない。
 そのときも藤井君に助けて貰ったんだった。
 みんなから荷物を預かって教室まで運ぶとき、つい足を滑らせちゃって、気が付いたら藤井君の上にのっかってたんだ。でも、藤井君は私の全体重を受けてしまって……それでも『美咲さんに乗りかかられるなんてついてるぅ』なんて笑って……それが原因で足を捻挫しちゃったのにも私は気が付かなかったのに。……それ以来、階段を登るときはすごく気を使うようになった。
 屋上に出てみると、秋とは思えないほど肌を刺す冷たい空気が襲いかかってくる。息が白く凍るまでもう間もないことを風が知らせてくれていた。
「それで、ご用件は何かな?」
 私はなるべく由綺ちゃんを緊張させないように言ってみた。
 由綺ちゃんは相変わらずずっと緊張しているようだったけど、突然私を睨むようにみえるほど気合いを入れた目をして、今まで開いていた手をぐっと握りしめると、
「藤井冬弥君とは、どういった関係ですかっ?」
 と言ってきたんだ。
「え……っ?」
 息が詰まる。耳を疑う。いつもめまぐるしく動いているはずの時が止まり、今まで騒いでいた音がしんと静まり返ったような気がした。
 遠く由綺ちゃんの後ろを小さく見える飛行機が雲を描いて飛んでいることが、気のせいであることをすぐ否定してきた。
「私、藤井君のこと、好きです。二学期になって、席が隣同士になって、その気持ちはもっと膨らんできて……。一緒にいると楽しくて、気が利いて、優しくて……でも……先輩が藤井君とつきあってるかもしれない、って聞きました」
「……」
 ……彼女にも、優しいんだ……。
 あれ? どうして疑問に思うんだろう? 誰にでも優しくて当たり前、だよね。藤井君だもん。私だけ優しくしてくれる訳じゃないよね。そうだよね。
「どうなんですか、先輩……答えて下さい!」
 うん、私も彼のことが気になってるよ。
 って、なんで言えないんだろう。本当の事なのに。
 でも、私がそう言ってもいいのだろうか。……そう、私は今、彼から見ればただの友達にしか過ぎないんだ。私なんかが、藤井君のことを好きだという彼女の意志を無下にして良いのだろうか? 藤井君の恋愛を邪魔する権利があるというのだろうか?
 ……権利なんか、ない。すべては、私の我が儘……勝手に物語を描いただけなんだ。
「ううん、つきあってないよ。藤井君とは、お友達」
 私はそのとき、そう言った。
「本当ですか?! わぁ、良かったぁっ!!」
 すると、手をぱんと叩いて、今まで緊張していた顔がぱあっと微笑み、全身で嬉しさを表現した。こっちが羨むほどに。
「澤倉先輩が彼女なら、絶対に敵わないと思ったけど……っ! あ! 本当にすみませんでした、先輩! それじゃぁ!!」
 そう叫ぶように言って、大喜びで屋上から校内に戻っていった。
 嬉しそうな人を見ると、こっちも嬉しくなってくる。
 いつもなら。
 じゃぁ、そのときの私は何だったんだろう?
あんなに可愛くて、全てを暖かく包み込むような微笑みを生み出せて、彼に対する想いは大きくて。……私には全てに於いて敵わない存在……といつもなら思うはずだ。
 でも、そのときは普通じゃなかった。そうじゃないと説明がつかない。どうしてそう思うのか、私自身でも答えられなかった。
 ひょっとするとそのときが初めてだったかもしれない。
 自分が思った以上に藤井君のことを意識していたことに今更のように気がついた。
 藤井君の隣を歩くことがごく当たり前だったから、意識していなかっただけなんだ。
 でも、その『当たり前』も、終わってしまう。
 あんなに一途な娘の告白を断るような人じゃない。
 藤井君の隣が私じゃなくなる……それで私は納得出来るの?
「――っ!!」
 私は何かに弾かれたように飛び出した。
 まだ、間に合うかもしれない。
 自分でも信じられないほどすごい勢いで階段を駆け下り、二階に辿り着く。
 そして彼と、あの娘がいる教室の入り口から、彼の席を見る。
 でも、彼らはそこにはいなかった。
 そのかわり、いつもなら気にとめないほどの雑談が耳に届く。
『由綺が藤井君を中庭に連れてったって?』
 そのセリフから中庭に向かおうとしたときは。
 もう遅かった。
 中庭に一番近い階段から。
 藤井君とさっきの娘が。
 いかにも仲良さげに歩いてきて。
 そして。
 困った表情を見せる藤井君をよそ目に、あの娘は腕を絡ませていた。

 そのときから。藤井君の隣は、あの娘のものになった。



 その後。
 藤井君から、恋人として由綺ちゃんを紹介された。
 由綺ちゃんはそのとき私に『はじめまして』と言っていた。
 なんとなく、その意味が意図できるから、私はそれにあわせてしまった。
 そのときでもいい、私は二人から離れるべきだったんだ。
 そう……いくらでもその方法はあるはずなのに。どうしてだろう。それが出来なかった。
 藤井君から離れることが想像できなかったんだ。
 今まで通りいれば、友達のままでいられる。
 今まで通りいれば、仲の良い先輩のままでいられる。
 今まで通りなら。
 だから、そのとき生まれた心を、箱の中に詰め込んだはずだったんだ。でも今、由綺ちゃんは藤井君の隣にいられない。
 それを察知して、もはや錠前すらかけられない、あまりにボロボロの箱の中から勢い良く飛び出したそれ。私は……それをまた閉じこめることが出来なくなっている。もう……閉じこめるのが嫌なんだ。私は……。
「あ、いたいた。美咲さ〜ん」
 藤井君!? ど、どうしよう? あ、でも、逃げても仕方ないし……。
「ふぅ、捜しちゃったよ」
「あ……ご」
「ごめんね、美咲さん」
 ごめんなさい、と言う前に、藤井君の方がなぜか謝る。
「もしかしたら、微笑ってたことで、俺が傷ついたんじゃないか、って思い違いして逃げてったんじゃないかな、って思って。」
 私の方が先輩なのに……かなわない。
「……ごめんなさい」
「やっぱりなぁ。そんな風に気を使うの、美咲さんだけだよ。はるかだったら、ふぅん、で終わっちゃうのにさ。優しすぎるよ、美咲さんは」
「……」
「ごめんな、美咲さん。俺、どうも鬱ぎ込みすぎだった。変なこと言っちゃってごめん。それと、相談に乗ってくれてありがとう、聞いてくれてすぅっとしたよ」
 ……どうしてそんなことを言えるんだろう。優しすぎるのは藤井君の方だよ……。

 ぎゅ

「えっ?」
 私は藤井君の手を握る。あまり暖かくない。それに、ちょっと固いような感じ。
「美咲さん?」
 私は、彼のことを、忘れなければならないの?
「どうしたの?」
 どうしても、想いを忘れなければならないの?
「…………か」
「?」
「行こうか、藤井君」
 私の中に根付いていくものは、もう止められないよ。
 どんなに切ろうとしても切れない。ただただ、傷付くだけで。
 その傷一つ一つが、大きく疼いたとしても。
 再び閉じこめることは、もうありえない――。

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