夢。
 夢を見ている。

 真夜中、晩秋の冷たい月が煌々と輝きを放つ中で、わたしは「何か」を追ってた。
 空気の抵抗を受けないためか、地を這うように走ってる。
 いつもじゃ考えられないくらい速くて、力強い走り。
 そんな中、ふっ、と右前に目線を向け、地面を蹴りとばし、月を目指すように飛び上がった。
 その跳躍は、普段のわたしじゃあり得ないくらい高かった。
 ……だって、屋根を見下ろしているんだもん。
 辺りの風景は見覚えがある、うちの近所なんだけど、いつもなら壁に阻まれて見えないところもよく見える。
 ……あ、あの壁の間……箱の中に仔猫がいる……捨てられたのかな? 可哀想……。
 でも、わたしはそれをちらりと見ただけで何をするわけでもなく、屋根の上に音も立てず着地すると、屋根の上ということを忘れたように、一軒一軒飛びはねてく。
 一歩が数十メートルということになるよね……? 自分でも信じられない。
 しばらく屋根づたいに走ると、広々とした公園に出る。
 隆山中央公園、だった。
 普通に行けば湾を挟んだ対岸にあることもあり、車でも30分近くかかるのに、屋根づたいを含めて本当の最短距離を車より速いスピードで走ったから、10分くらいで着いちゃった。
 わたしは到着と同時に周りをキョロキョロ見渡す。
 そして、「それ」を感づいた。左後ろにくるりと振り向く。
『グ、グ……』
 ……聞こえる。何かのうめき声が。わたしの耳にはっきりと。
「……私の声が届くかしら……?」
 ? あれ?
 この声……わたしじゃない。どっちかっていうと……。
『グルル……ッ』
 その声に答えるように、「それ」は、姿を少しずつ現していった。
 夢の中の「私」はその姿を見ても何とも思っていないけどわたしは息を飲み込むと同時に、すごい勢いで血がひいていった。
 目は真っ赤で瞳すらない。
 口はまるでオオカミみたいに牙をむき出しにして涎をだらだらと垂らしてる。
 筋骨隆々な体つきで手足は人間並みの長さなのに爪がやたら長く、かぎ爪のように曲がってる。
 一言で「バケモノ」としか形容できないモノが立っていたから。
「あなたも……ダメだったのね……」
 夢の中の「私」は「バケモノ」に全く動ぜず、半ば諦めているような……そんな言葉を悲しみ混じりに言うと、一つ軽く溜息をつき「バケモノ」をキッ、と見据えた。
「あなたも、匂いを辿ってきたのでしょう? ……”同族の女”の匂いを」

 ど、どうぞく!?
 一緒、ってことなの!?
 この「バケモノ」と!?

『グガアアアアアアッ!』
 何か考えようとした矢先、いきなり「バケモノ」が空に向かって吼える!
「……これ以上愚を起こさないためにも……”出来損ない”のうちに……あなたを……」

 ばっ!

「バケモノ」が聞き終わることなく空へ飛ぶ。まっすぐわたしに向かって。
 ひっ!?
 わたしはびっくりしてそう叫んだ……はずだった。
 だけど「私」は動じない。それどころか「バケモノ」の飛ぶ軌跡を目でじっと追ってるだけで、動こうとしなかった。
「バケモノ」は、いつまでも動かない「私」に一直線に飛んできて、「私」を切り裂こうと大きな爪を振り回した!

 ブフォン!

 だけどそれは大きく空を切る。
「私」が大きく後ろへ飛び跳ね、その攻撃をかわしたらしかった。けど、何かに気が付いたように左手で左目下辺りを拭うと、月明かりに照らされながらも、あまり見慣れない紅色が付着していた。
 一方、「バケモノ」はにた〜と笑いを浮かべ、わずかに爪に付いた”紅”をべろべろと舐めると、興奮しているみたいに、げへげへと笑いを浮かべ、息をどんどん荒げていった。
 そして「バケモノ」がひときわ薄笑いを大きくした刹那、わたしの目線からそれがまた消えた……と思ったら「私」の目線は上空でしっかりとその「バケモノ」を捉えていた。
 わたしは、また動かない。もしかしたら今度こそ動けないのかもしれない。
 果たして、答えは前者だった。
 あっ、という間もなく「私」は上空に舞うと懐に飛び込み、バケモノの繰り出す大きな腕を左手で流す。
 と同時に、右手は……。

 ドボオッ!

 聞き慣れない音とともに「バケモノ」の人間で言う心臓部分を貫いていた。
「私」がそのまますぐ腕を引き抜くと、それから勢いよく飛び出るなま暖かい「液体」が、顔中にびとびととかかってくる!

 ……えっ……と。
 いま、なにしたの? わたし……? 
かおにかかるこれって、なに?
 とまらないよ? おかしいよ。とめなくちゃだめだよね。
 とめる? なにを?

『グォ……グァァァァッ!』

 ひゃっ!?
 辺りにびりびりと響き渡る声でわたしは我に返った。
「バケモノ」は叫びとともになおも飛びかかろうとしている。
 でも……足取りは重く、のろのろと、狂ったように力無く腕を振り回しているだけだった。

「……さようなら……」

 !?
 なに……するの? わたし? 右手をあげて……っ。
 や、やめてよ……。どうして、そんなことするの!?

 ――ひゅん!


痕 SS




「うああああっ!」
 あ……あれ?
 ここは……。
 何の変哲もない、わたしの部屋……だ。 
 慌てて顔を探る。
 いつもの感触が広がる……間違いなくわたしの顔だ。左頬にも、傷がなかった。

 ガンガンガンガン!

「ひっ!?」
 凄い勢いで扉が叩かれる。
 わたしはその音だけで驚いて縮こまってしまった。
「初音! どうしたのさ!? 初音っ!」
 う、わぁ……びっくりした……。梓お姉ちゃんだ……。
「開けるよっ!」
 こちらが返事する間もないまま、勢い良く扉が開かれた。
「あ、れ?」
 そして真剣な顔で飛び込んできたけど、なんともないわたしの状態に呆気にとられたような顔になった。
「えへへ……おはよう、梓お姉ちゃん」
「……はぁぁぁっ……、いきなり叫ぶもんだから何かあったのかと思ったよ」
 大きなため息を一つついて、安堵の表情を浮かべてくれた。
 梓お姉ちゃんをすごく心配させちゃったみたい。
「ごめんね、梓お姉ちゃん……ちょっと夢にうなされちゃったんだ」
「ゆ・め?」
「うん……怖かった……」
「……あ、っそ」
 無事だと云うことがわかったからか、何か素っ気ないような梓お姉ちゃん。
 ……ううん、違う。
 慌てて飛び込んだことが恥ずかしくて、照れてるみたい。
「ありがとう、梓お姉ちゃん。ごめんね、心配かけちゃって」
「ん……まあいいんだ。初音がなんともなければ。うん、良かった良かった」
 顔を真っ赤にして、頷きながら納得している梓お姉ちゃん。
「んじゃ、ちょっと手伝ってくれる? 朝飯はもう出来てるからさ、食器とか並べてくれないか?」
「うん」
 返事を聞くと梓お姉ちゃんは、にっ、と笑って、部屋から出ていった。
「……ふぅ」
 でも、あの夢……。声が似てたな……。
 と、そんなことをぼんやり考えながら躰を起こす。
「ひゃっ?!」
 冷たっ……。
 ……あ、すっごい寝汗……。お布団も手で触ればすぐ解るくらいしっとりしてる。よく見たらパジャマもぐっしょり。ちょっと、気持ち悪いな。

 シャーーッ

 カーテンを開けてみると、太陽が晩秋を思わせないほど照っていた。
 うん、いい天気っ! 朝御飯食べたら、お布団干そうっと。
 わたしは精一杯背伸びをして、ベッドから起き出すと、着替えて、居間に向かった。



 7:30。
 わたしと梓お姉ちゃんですっかり朝食を整えると、梓お姉ちゃんは千鶴お姉ちゃんを起こしにいった。
 千鶴お姉ちゃんの朝は手強い。躰を揺らしたくらいじゃ起きないもん。
 耕一お兄ちゃんがいたときは『私が耕一さんを起こします!』って張り切って起きてたんだけど……耕一お兄ちゃんが下宿先へ帰ってからというもの、また、いつもの千鶴お姉ちゃんになっちゃった。
 でも、そのおかげで梓お姉ちゃんは必殺技を手に入れたんだよね。

 どたどたどたどた……ばんっ!

 今日もいつものようにけたたましく襖が開き、千鶴お姉ちゃんが髪を整えることなく、にこにこしながら居間に飛び込んできた。
「耕一さんっ! いらっしゃ……あ」
 やっぱり今日も使ったんだ。梓お姉ちゃんの最新必殺技、「千鶴姉、耕一来てるぞ!」耳元ささやき。寝ぼけてるのも手伝って、今日も効果は抜群みたい。
「ま、またぁ? ……こら、梓っ!」
「へん、そうでも言わないと起きないのがいけないんだろ!」
「く〜っ……今日という今日は許しませんっ!」
「それが起こしてやってやるやつに言う台詞か!? それなら明日からは自分で起きなっ!」
「……あ、う……」
「千鶴姉もちゃんと目覚ましとかで起きてくれれば、こんなことしなくて済むんだよっ!」
「ううっ、だからって耕一さんをダシに使うなんて……」
 千鶴お姉ちゃん……いつものことだけど、このときばかりは劣勢だよね、可哀想なくらい……。
「……朝御飯」
「あ、おはよう、楓お姉ちゃん」
 いつもながらの朝のイベントの最中、みんなが気が付かないうちに定位置に座っていた楓お姉ちゃん。耕一お兄ちゃんはそのたびに驚いていたっけ。
「ったく……んじゃ、飯にするか。初音、御飯よそうの手伝って」
「うん」

「……んぐんぐ」
 相変わらず楓お姉ちゃんは食べるのが早い。
 さっき食べ始めたばっかりなのにもう鮭の切り身が半分無くなってる。
 でも、良く噛んでるし、箸の動きもごく普通なのに、どうしてそんなに早いのかなぁ……。
「しかし、千鶴姉もよくダイエット続くねぇ」
「よけいなお世話っ!」
「で、どれくらい減ったのさ?」
「そ、れは……」
 もじもじしてる……。
 千鶴お姉ちゃん、見た目はそんなに変化ないけど、ほんとに太ってるのかな?
「やっぱ運動しなくちゃダメなんじゃないの? 食い物減らすだけだと反動怖いよ?」
「う、ん……やっぱりそうなのかしら?」
「あっ、千鶴お姉ちゃん。マグネシウムが多く含まれているものを食べるとダイエットにいいみたいだよ」
「……うぐ、くぃのぅ、てれ、う゛ぃで、やって、とぁぬぇ」
 楓お姉ちゃんが食べながらしゃべっている。きっと”うん、昨日テレビでやってたね”と言いたかったんだと思う。
「例えばどんなものに入ってるの?」
「えっとね……納豆とか、ひじきとか、ナッツにいっぱい入ってるみたいだよ」
「そうなの? じゃぁ、積極的に食べるようにしてみようかしら」
「ムリムリ。だいたい、そう言うのだって食べ過ぎちまったら意味無いだろ」
「……」
「……」
 わわっ……一触即発……。
「……おかわり」
 えっ?
 ほんとだ、もう御飯とおみそ汁が無くなってる。
 早すぎるよ、楓お姉ちゃん……。
「あ? あ、あぁ、ちょっと待ってて」
 でも、いいタイミングだったよね。
 もしかしたら、狙ってたのかも。
「ん、もぅ……」
 ぷりぷりしながら食事を再開する千鶴お姉ちゃん。左手に頬杖を付きながらで、ちょっとお行儀が悪いかも。
 ……?!
 ……あ、れ……?
「千鶴お姉ちゃん、その左頬の絆創膏……どうしたの?」
「え? これ? ……初音、笑わない?」
「う、うん……」
「千鶴姉ったらさ、ピンヒール履いてたらしくて、豪快に躓いて転んだんだってよ。そのとき、運悪く石があったらしくてさぁ」
「あ、梓っ!!」
 顔を真っ赤にして受け答える千鶴お姉ちゃん……だけど……。
「千鶴お姉ちゃん、それ、いつの話?」
「え?」
「昨日お仕事から帰ってきたときは怪我なんてしてなかったし、そのときの靴ってパンプスだったよね? それに、そのあとわたしが寝るまで外出もしてなかったよ?」
 わたしは、そういう変化は見逃さない方だと思う。すぐ忘れちゃうけど、その場の記憶力は強い方だし、自信がある。今のも間違いないはず。
「あれ? そなの? 昨日あたしにはそう言ってたけど?」
「え、っと……」
 千鶴お姉ちゃん、わたしを見てない……。たぶん、嘘、ついた。
「……ごちそうさま。……初音、時間はいいの?」
「え? あっ……」
 よく見たら、そろそろ準備を始めないと間に合わない時間になっちゃった。
「そんじゃ、とっとと御飯を食べてしまおうかに? 初音はどうする?」
「あ、わたし今日はごちそうさま。ごめんね、梓お姉ちゃん。残しちゃって」
「あー、気にすんなって。あたしも一端握っちゃってるしね」
 豪快に御飯を口に放り込みながら喋る梓お姉ちゃん。
 普段はゆっくりと、どちらかというと誰よりも上品に食べてるけど、ぱくぱくと思いっきり食べている方が”梓お姉ちゃんらしい”って思っちゃう。
「んう? 初音。あたしの顔に”おべんと”でもついてる?」
「えっ!? ううん、全然付いてないよ?」
「……あ、そ」
 ふぅ……梓お姉ちゃん、こういったときはすごく反応早いからびっくりしちゃうよ。
 そんなに落ち着いている場合じゃないんだった。学校へ行く準備をしなくちゃ遅刻しちゃうよね。急がなきゃ。

 三和土に急いでおりて、ガラガラと戸を開ける。
「いってきま〜す」
「ほ〜い、いってらっしゃ〜い」
 いつもの時間よりちょっと遅いくらい。良かった。
『天高く馬肥ゆる秋』っていうけど、秋って本当に空が高く高く見える。
 でも、わたしは気分が晴れてないなぁ……。こんなことって今までで初めてかも。
 ……あ、そういえば……。
 ちょっと学校とは違う方向になっちゃうけど、ひょっとしたら今行かないと変わっちゃうかもしれない。ちょっと駆け足で行くことにしよう。
 わたしはそう決めるとすぐ、”目的地”まで走りだした。

 学校と逆方向に走ること3分ちょっとでついた。
”昨日”だと、一分も掛からなかった距離が異常に遠く感じた。
「えっと……ここの壁の間、だったよね……?」
 じっと中を見る、と。
「あ」
 暗がりに特有の目のきらめきが見える。やっぱり、いる。箱の中に仔猫一匹。
 猫も、わたしが見つめているのが解ったのか、なー、と可哀想なくらい、か細い声で鳴いた。
「ごめんね……帰ってきたら、なんとかするよ」
わたしは仔猫に謝ると、また、学校へ向かって走り出した。



「――だからここでは、0エクスクラメーションが1であることを利用してだな……」
 ふぅ。
 どうしちゃったんだろ、わたし。 
 ここ最近……耕一お兄ちゃんが賢治叔父ちゃんの49日に来てからは特に、妙にクリアで、その場にわたしがいるような感覚に襲われるくらいリアルな夢をよく見るようになった。
 たしか夢って、自分の隠れた本性が映し出す鏡、って千鶴お姉ちゃんに聞いたことあるけど……わたしが、ああいう願望を持っている、ってことなのかな……?
 あれから……そう、2回、ああいう……「バケモノ」が出てくる夢を見ている。それに、妙に不鮮明の時も多い。
 でも、最初ははっきりしてて……。
 ……かぁっ
 か、顔が赤くなって来ちゃうんだけど……耕一お兄ちゃんと、愛しあってる夢、なんだよね。
 ……でも……そこって、楓お姉ちゃんのお部屋だった……。

 ――ドクン

 こういった夢は、共通してるのがいくつかある。
 たとえば、家の中とか、ご近所とか、とにかく身近で、目立ったものがあるところを調べると、必ず、同じ変化がある起こっている。
 千鶴お姉ちゃんだってそうだし……今朝の猫だってそうだし……。
 ……楓お姉ちゃんも……その夢を境に、お兄ちゃんにずっと寄り添うようになった。

 ――ドクン

 もしかして……あれは現実……なのかな?
 あの夢の”わたし”って、もしかしたら……わたしじゃなくて……。

 ――ドクン!

 パキンッ!

 ……あれ? シャーペンが二つに折れちゃった。
 おかしいなぁ、どこか割れてたのかな? お気に入りだったのに……。
 えっと、筆箱は……あった。

 ぐしゃっ!

 えっ? 握っただけで潰れちゃった……あ、れ?

 ――ドクン!!

 っ!?
 む、胸が、息が、っ……く、苦し、よぉ……っ。
 む、ねが、はれ、つ、しそ……はぁっ、すっ、はっ……あ、う、く、ぐっ……く、くる、くるし……ぎ、ぐ、ぐっ、ぐぁ……が……がっ。

 ギギギギッギッギッ……

「? おい、柏木、どうした?」
 せ、せん、せい、の、こえ、が、きこ、える……っ、けど……。
「あ、せ、ん、く、う、っ、ぐ、ぐっ……」
「柏木? ……苦しそうだぞ?」 
 うん、うん、くる、し……ぐっ、ぐ、ぐぇ……っ

 ギギギ……ッグシャアアッ!!

「柏木っ!?」
 あ……つ、く、えが……つぶ……れ……ぁ!?
「くっ……かっ、はっ、ぁは、っ……」
 …かわく……っ…………。
 ……み、たした、いっ…………。
 で、……もな、にを……っ?

 ドカアッ!

「キャアアアッ!」
「危ねーなぁっ! 椅子蹴っ飛ばすんじゃねー……おい?」
 か……く、くふ、ふふ、き、も……、きもチ、いイ……。み、タサ、れ、ル……。
「柏木ッ!?」
「初音、しっかりしてっ……!……目、が紅く……っ」
 ……ミ、タ……ミタサ、レタイ……。
 ……イノ、チ、チルト、キノキ、ラメキ、ヲ、ヲ……。
「グ、ガ、ア、ガアアッ!」
 
 ガシイッ!

「は、つねっ、やめ……くるし、いいっ……」
 ミセ、ロ……オマ、エノ……セ、イメイガ……チリユク……ウツク、シサヲッ!!
「…や……め……っ」

『やめなさいっ!!』

「! グッ……ア、グ……」

 ぱっ。

 ドサッ!
「……はーっ、はーっ、はーっ……いた〜っ……おしりぶっちゃった……な、なにする……の……って初音っ?」

 ふらっ……ドサァッッ!!

「……かしわぎ?」
「……」
「柏木?」
「……」
「初音? ちょっと? ねぇ?」
「お、おい?」
「……あ、おい、近づかないほうが……」
「たぶん、平気よ…………ほらしっかり、はつ……ねっ?!」
「ど、どうした?」
「あ、あわ……い、いきっ、息、いき、してないっ……! わ、うわ……わ……し、しんぞうも、動いてないっ!」



『う……っん……』
『目を覚まして』
『……えっ?』
 その言葉に呼応するように、ゆっくり、目を開けてみる。
 すると目の前に、見たこともない服……民族衣装かな?……に身を包んだ、一人の女の人が立っていた。
 その人は、わたしが目を覚ましたことを確認すると、にっこり微笑み、ゆっくりと会釈する。それにつられてわたしもぺこっとお辞儀した。
『初めまして、初音さん』
 あくまで微笑みながら、その人はわたしに語りかける。その微笑みは――今まで感じたことがないくらい――わたしを心の底から安心させてくれた。
『あっ……初めまして……えっと……その』
 その人はわたしの名前を知っているのに、わたしは名前を知らないのはなんだか、申し訳なかった。
 でもその人は、わたしの思っていることを察知したらしく、微笑みを絶やさずに自己紹介をした。
『わたしの名前は、リネット、と申します。あなたの遠い祖先にあたります』
『えっ?』
 わたしの、ご先祖様、なの? この人が?
『え、えっと……ご先祖様が、わたしになにか?』
『あら。……疑わないのですね』
 あ。そうか。どうして突拍子もない話なのに疑わないんだろう?
 すぐ信じちゃうのは……やっぱり悪い癖なのかな?
『早速ですが、本題に入りましょう。雨月山のお話……ご存じですよね?』
『? え? は、はい』
 これから始まる本題?? 予想も付かないや……なんだろう?
『それは真実だということも?』
『えっ?』
 あの、地方の桃太郎みたいなお話が……本当のこと?
『わたしはエルクゥ……あなた方人間から見れば”鬼”といわれる側なのです』
 えっ、と……?
『そして、あなたには、あなた方が云う”鬼”の血が流れている、ということになります』
 よく、わからない、や……。この人、何を言ってるの?
『もちろん、あなたの躰は殆ど人間です。もうわたしの世代から相当な時が流れましたからね。ですが、わずかでもエルクゥの血が流れている限り、生まれてからある一定の区間を経ることにより真のエルクゥに成熟する過程を伴わないとなりません。ですが、人間のままの躰だと、この血に耐えきれず、ついには力の暴走を引き起こしてしまいます』
『……』
『ですから、エルクゥは、その血に耐えうるよう、人間の躰の機能をすべて停止した後、エルクゥの躰に組み替え直さなければならないのです』
『……』
『その際、女性ならわたし自身エルクゥということもあり、組み替えは容易に行うことが出来るのですが、男性は……つまりわたしの”夫”が……もともと人間の躰で、血のみエルクゥとなってしまった、いわゆる特性遺伝ともいえる存在なので、その組み替えが出来るのは、その特性をもったもののみなのです』
『……』
『……貴方が良く知る”耕一さん”は、この組み替えを貴方の姉である千鶴さんと楓さんの手によって無理矢理引き起こさせました。成熟した同族の異性が間近にいると、この変異を急激に進行させることが可能ですので』
『……えっ?』
 いつのまにそんなことしたんだろう?
 ……あ。ひょっとして、千鶴お姉ちゃんが、楓お姉ちゃんと耕一お兄ちゃんをおんぶして帰ってきたときかな?
『そして、耕一さんはこれを無事乗り越えることが出来ました。それもそのはず……この方は、わたしの夫である次郎衛門の生まれ変わりなのですから』
『え……っ?』
『ですが……先ほども言いましたが、成熟した同族の異性が近くに存在すると、変異を急激に行ってしまうのです。つまりあなたも、耕一さんの影響を受けてしまい、予定より早くこの変異が行われてしまいました』
 ……なんだか……頭が、ごちゃごちゃしてきて……正気を失いそう……だよぅ……。

 ――すっ

 そんな混乱したわたしをよそに、リネットさんは、わたしの額を指さす。
『……あなたはわたしの生まれ変わり……。そして……地球におけるエルクゥの歴史を絶えさせるために、生まれたのです……すべての決着をつけるために……』
 ……えっ? わたしが……何?
『あなたに、わたしのすべてを授けます……どうぞ、これから起こりうることに目を背けないで……そして、できることなら……』
 え……っ……? リネットさんの躰が……いくつもの光の粒に……なってく……。
 そしてそれはすべてを照らしはじめた……。
 わたしを包み込むようにして……。
 そして、わたしをも溶かし始める。
『いつまでも、笑顔であってください……わたしのょ』
 最後の言葉までは、わたしの耳には届くことはなかった。



 ……う……ん? あれ?
 ここ、は? わたしの部屋、だよね?
 えっと……あれ?
 ……手が、握られてる……。
「……初音?」
 あ……。
「楓、お姉ちゃん……?」
「良かった……」
 楓お姉ちゃんは、にこり、と微笑むと、手を離して立ち上がった。
「……覚醒……学校で起きちゃったんだね……普段はそう言ったことがないのに……」
「びっくりしちゃった。エルクゥのこと、全然知らなかったから」
「……初音、救急車で運ばれたことは覚えてる?」
「ううん、全然」
「……エルクゥになるとき……一時的に躰の全ての機能が停止して、その間に遺伝子レベルで人間からエルクゥへ変化する。そのとき、仮死状態になるんだけど……初音はそれが救急車に乗っている間に終わって、すぐ息を吹き返したの。それで、今までずっと眠ってた……」
「そうなんだ」
「……うん。このこと……黙ってたのは悪いと思ってる……でも……」
「ううん……わたし、気にしてないよ」
 今は、それよりも気になることがある。
「お姉ちゃん、さ……」
「……うん?」
「耕一お兄ちゃんのこと……好き……だよね?」
 楓お姉ちゃんはわたしの変な質問に多少とまどったみたいだけど、コクン、と頷く。
「じゃあ……愛してる?」
「……うん」
 そこで区切ると天窓に向かい、そこから庭を見ながら続けた。
「……エルクゥは、互いの強い想いを一種のテレパシーみたいに感じ合うことが出来る……、なら、見たんでしょう? 私と耕一さんが愛し合ってるところ……」
 わたしは素直に頷いた。
「……私は……確かに、前世の記憶を取り戻したとき、エディフェルから強い愛の思念も受けた……だから、次郎衛門の生まれ変わりである耕一さんを意識するようになったのかもしれない。でも……たとえ前世の記憶に振り回されたとしても……私は耕一さんを愛したい、愛されたいと、一目見たときから願った……。もうどうしようもないくらい。その為には、まだあやふやだった耕一さんの前世の記憶でも何でも……利用できるものならすべてを使って、私に耕一さんの目を向けたかった……もしかしたら……、耕一さんが、覚醒に失敗したら……千鶴姉さんに、殺されるかもしれなかったし……」
 わたしは以前だったらそうだったろうに、千鶴お姉ちゃんの行動を、否定できなくなっていた。
 どちらかというと、わたしが非難されなくちゃならないのかもしれない。
 ……柏木嫡流の長が、今までも、そしてこれからも、人間に害をなすエルクゥを”始末”しなくちゃならないのは……紛れもなくそれをうんだ”わたし”の責任だから。
「……次郎衛門がエディフェルよりリネットの方をずっとずっと愛してしまっていたら……そう考えると……」
「それはないみたいだよ。次郎衛門は、エディフェルのことをずっと忘れられなかったみたい」
 だってエディフェルは死んでしまったから。
 次郎衛門が愛しているうちに死んでしまったから、エディフェルは彼の中で事実よりもずっと美化され続けていく。
 リネットは、いつまでも彼の理想通りに変化し続けていくエディフェルと比べ続けられていたから……わかっちゃう。
「……リネットは、次郎衛門のことをどう思ってたの?」
「どうしようもないほど好きだったみたいだよ」
 さらり、と言ってのけた。
「……そう」
「わたしももちろん、そうだよ」
「……うん」
「楓お姉ちゃんにも、負けないよ」
 どうしてなんだろう?
 わたし、今までにないほど、強気……。
 エルクゥになっちゃったからかな?
 それとも……。
「そうだね……でもそのほうが……」
 楓お姉ちゃんはこちらに振り向き、にこり、と微笑む。
 何かから解放された、笑みだった。
 ――でも違うよ、楓お姉ちゃん。わたしたちは……
「じゃぁ、初音。今日はゆっくりしてなさい……おやすみ」
「うん……?」
「?」
(姉さんたちって、たまに、とてもわかりやすいこと、するね)
(うん、そうだね)
(せえの……)

 ガチャッ!

「うわわっ!」
「きゃあっ!」
 どっしーーーん!!
「う、ち、千鶴姉、お、おも……」
「いたた……おも?」
「……いえ、なんでもありません」
「……」「……」
「あ、あら……ほほほっ」
「は、初音も、げ、元気そうで、何より、うんうん」
「あ、はは……あははっ」
 ――わたしたち4人はむしろこれから、エルクゥとのしがらみに束縛されてしまう……。
 ……そう、いいたかったけど、今日はまだ黙ってよ。今は、まだ……ね。 

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