祝  そして、ある日の午後


 すってーん!
「あうっ!」
 娘が、何もないところでいきなり躓き、転んでしまった。
 そこへ、ものすごい形相をした父親が追いつき、身体全体を腕一本で掴まえる。
「こら、掴まえた! お前はまた壁にあんな落書きして! 今日こそは許さないぞ!」

 ぽかっ!

「あうっ! うぅ……ごめんなさい……」
 娘は、頭を殴られ、自分が悪いことをしたと覚ったのだろう、シュンとしながら謝った。
 ここは、とあるアパートの一室。
 ここには、とある夫婦と、娘一人が暮らしていた。
「全く……これさわるんじゃないぞ。熱いから」
 アイロンを暖めながら、もう五歳になる娘にそう言った。
 クレヨンで描かれた落書きは、まともに消すとあまり上手くいかない。そこでアイロンを使う。壁に布を当て、低温に設定したアイロンを押し当てる。布の場所を変えて何度か繰り返すと、壁に付いていたクレヨンが布に付いてしまうのだ。その後、食器を洗う洗剤にクレンザーを混ぜ込んだものを布巾に含ませれば、上手い具合に消せる、という寸法だ。
「お母さんがこの方法を教えてくれたから良かったものの、もし消えなかったら大家さんに大目玉だよなぁ……」
 ぶつぶつといいながらも、慣れた手つきでアイロンを押し当てていった。
「……お父さん」
「なんだ?」
「お母さんと赤ちゃんに会いに、まだ行かないの?」
「お前のせいで遅れるな」
「あぅっ、早く早くっ!」
「これを消してからだ」
「あぅ〜っ…………解った、待ってる」
 自業自得という言葉を知っているかどうかは解らないが、それで諦めがついたのか、落書きが消えるまでちょこんと座り続けていた。……そして、娘が素直に座っていたからか、いつもより早く綺麗にすることが出来た。
「よし、それじゃいくぞ」
「うんっ!」
 お父さんが、すっ、と手を出すと、娘はその手をしっかりと握りしめた。玄関に鍵をかけ、二人が待っている病院に、向かうことにする。
「ねぇねぇ、男の子? 女の子?」
「男の子だ。お前もお姉ちゃんになるんだから、もっとしっかりしなくちゃダメだぞ?」
「うん! 真琴、しっかりする!」
 娘は、とても力強く、ぐっ、と空いていた右手で握り拳を作って振り回し、一生懸命、姉らしくすることをアピールした。
「おとーと♪ おとーと♪」
 娘は、弟が出来たことがよほど嬉しいのか、弟、という言葉を繰り返し、スキップのような軽やかな足取りで歩いていく。
「ははっ、まだ会ってないのにそんなに喜んでると、会ったらどうなっちゃうんだろうな?」
 それを父親は、微笑ましくその様子を見つめた。
「お父さん、お父さん」
「ん?」
「赤ちゃんの名前、決まったの?」
「……ああ、決まったよ」
「わーーっ! ねぇ、なんていう名前なの? 教えて教えて?」
「あぁ……名前は……」



WEEKEND 了

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