Kanon SS

さよならといいたくて


  そこから外に出ると、ちちち、と耳にまとわりつく小鳥の鳴き声が私を出迎えた。
 ここは住宅街からだいぶ離れた場所にあるので、それ以外の喧噪が無い。ぽつん、とひとり取り残されたような……ひどくいやな気持ちになる。
「……」
 空を見上げる。
 悲しいほど雲一つない空は、それがはるか遠くにあることを示すように、青を何重にも重ねたサックスブルーをたたえている。でも、その美しさをあらゆる意味で損なわせる煙突があって、そこから絶え間なく煙が出続けている。
 ふわり、ふわり、と。
 その黒みがかった煙は、空の美しさとはあまりにミスマッチで、見ているだけで吐き気をもよおしそう。
「あ」
 そしてそれは、まるで水に墨を落としたようにじんわりと空に広がっていき、間もなく、どこかに吸い込まれていった。
 あまりにあっけなく。
 そこには何もなかったかのように。
「……」
 ゆらり、と。
 景色が、また、ゆがみはじめる。
 目をごしごしとこすってみると、指の感触だけでもまぶたが腫れぼったいことがわかる。瞳からこぼれるなま暖かい雫が腫れているところにしみ込み、少し、痛い。
「……う……っ」
 ……それに、きもちがわるい。
 連日ろくに眠れもしない体には、直射日光もあまり良くないみたい。
 頭、が、ぼおっ、とする……。
 それに、寒い……。
 もうすぐ夏を迎えるというのに、この寒さは何かしら?
 すごく……寒いよ……。
「は……ぁ……」
 あっ? と……。
 足下が、ふらつく、わね。
 地震、かしら?
 ……あら?
 わたし、何か、忘れてる、わよね……
 なんだったかしら……
 ……あ、そうか。
 おもいだした。
 きょう……あのひとと、まちあわせ、てるわよね?
 えっと……いま、なんじ、だっけ? 
 あ、いけない……、もう、ふつうに、あるいて、いったんじゃ、まにあわない、わ、ね。
 タクシー、で、いかないと……。
 えっと、えっと、でんわ……あ、あった。

§


「もう! 秋子ったら本当、どこに行ったのかしら?」
 あの子……喪主なのに、いきなりいなくなるなんて。もうすぐ骨上げなのに。
 旦那亡くしてショックが大きいのはわかるけど……だからって責任を果たさずに逃げ出す子じゃないのに、どうしたのかしら?

 キーッ!

 あら? 車のブレーキ?
「……あ、いた!」
 外にいたのね。どうりでくまなく探したつもりでもいなかったはずだわ……えっ?
 何してるの、あの子? タクシーなんかに乗って!
「ま、待ちなさい! あ……」
 ほ、ほんとにどっか行っちゃった。
「あの子ったら……! 何考えてるの!」
 と、とにかく追わないと……って、どこへ? この辺なんて、あの子の結婚式しか来たこと無いし、何がどこにあるのかわからないわ。
 どうしよ……あっ!!
 たしか、この前の電話で……。

『ふふ、それでね、彼、私たちが出会った日を覚えていてくれたのよ。それで、再来週の日曜日に、私たちが出会った場所で会おうって約束して……』

 そうよ! あのときから数えれば、再来週の日曜って今日!
 きっと、そこに行ったんだわ。そうに違いない!
 あ、でも……。
 出会った場所、ってどこかしら……?

§


 はぁ……。ついた。
 時間……ふぅ、よかった。間に合ったみたい。
「……ふぅ」
 この公園……あのときと変わってないわね。
 入り口から見える大きな噴水も。
 柔らかい緑生い茂る芝生も。
 太陽を照り返して熱せられているアクリル製のベンチも。
 みんな、そのまま。
 変わったのは……この中では、私だけね、きっと。
「熱……」
 ベンチに腰を下ろすと、やけどしそうな熱量が伝わってくる。
 でも、それでもかまわず座り込んだ。
「……はぁ」
 さっき、タクシーの中で横になったこともあって、幾分身体が楽になった。
 初夏の日差しは、冷え込んでいる私の体を少しずつ温めてくれている。
 それに加えて、先ほどまでの水瀬家による圧迫と緊張から解放された、というものもあるのかもしれない。頭が徐々にはっきりしてくるのがわかるし、身体も幾分回復している気がした。
 そして。
「なにやってるのかしら、私?」
 にへら、と多少笑いを浮かべながら、半ば呆れたように吐き捨てる。
 我ながら取り返しのつかないことをしたと思う。
 今頃火葬場では水瀬家の親戚筋が大変ご立腹のことだろう。
 何せ、喪主の立場で、葬儀から逃げ出してしまったのだから。
「……」
 でも、私はここで待っていたい。
 もちろん、来ないことは解っている。
 けれど、絶対ここに来ないといけない。
 彼は、約束を忘れることがあっても破ることは絶対にしない人だから。
「……ふぅ」
 矛盾だらけの思考に、思わずため息を付いてしまった。
 でも、これが、私なりのけじめ、というものかもしれない。
 こうして、彼の方が約束を破ってくれれば……私も、どこかで納得し始めると思う。
 ……あぁ。
 そういえばあのときも、このベンチだったわ。
 理由なんて忘れたけど、あの日、あのとき、こう座ってて。
 何気なく、こうやって、空を見上げたんだっけ。
 そのとき、視界の横からにゅーっ、って顔が出てきて、こんなところで、何……え?

 にゅーっ

「こんなところで、何してるのかな?」

§


 やっぱり、予想通りというか……誰も知らないみたい。
 そうよね。普通、出会った場所なんて本人たちが知っていればいいことだし、特に語ることなんてないしね。
「あの」
 困ったわ……どうしましょう?
「あの、相沢夏子さん?」
「はいぃ?」
 聞いたこともない声。しかもフルネームで呼ばれたから、すごく変な声で返事をしてしまった。
 ドキドキしながら声のした方へ振り向くと、そこには今まで見たこともない男性が立っていた。
 その彼は、みるからに優しそうな笑顔を私に向け、
「良かった、人違いではありませんでしたね。ご無沙汰しております、お元気でしたか?」
 と、頭を思いっきり下げながら丁寧に挨拶をしてくる。
「……あ、はい……ご無沙汰しております」
 正直私は彼のことをすっかり忘れているけど、とりあえずそう返事をしてしまう。……でも本当に会ったことがあるのかしら? これでも、人の顔は忘れない方だと思っていたのに。うーっ……ショックだわ。
「ところで、秋子さんは……?」
「え?」
「いえ、私、そろそろいかなければならないのです。ですから、せめて喪主にご挨拶をしてから帰ろうと思ったのですが……」
「あ……申し訳ありません。今秋子はどこかへ行ってしまって……たぶん、秋子が亡くなられたご主人と『最初に出会った場所』にいる思うのですけど……」
 秘密にしておく必要もないと思い、そう答える。
「最初に……? あ、もしかしたら、あそこかな? そういうことを生前、約束したという話を聞いたことがあるな……」
「え……」
 驚いた!
 今まで誰も知らなかったことを、この人は知っているようだわ。
「もしかして、場所をご存じなのですか?」
「あ、はい……たぶんですけど、ここから一番近い駅のそばに小さな公園があるのです。確か、お二人はそこで出会った、という話を聞いたことがあります」
「え、駅ですか?」
 困った……。
 ここまで車で来たときには、駅なんて通過しなかったし……場所も解らない。
「あ、宜しければ……駅まで私が案内しましょうか? 私も、今からタクシーを呼んで駅に向かおうと思っていたので、ついでにそこまで乗せていってくださいませんでしょうか? そうしていただけると、私も非常に助かるのですが」
 私は、その言葉に、了承、と二つ返事で答えた。

 彼は運転免許を持っていないらしく、私の運転で駅まで移動することになった。
「夏子さんは運転できるんですね。秋子さんは運転が出来ないらしいですけど」
 確かに、秋子は運転免許を持っていない。肝心なところで少しボケちゃうところがあるのよね。右折と言われて直進したり。それこそわざと? と思うほど。いつもしっかりしてるのに、車だけは苦手らしい。どうしてなのかしら?
 ……それに、しても。
「よくご存じですね。その話も、秋子から聞いたのですか?」
「ええ。でも当人は、旦那さんが運転免許を持っているからいらない、みたいなことをおっしゃっていましたけれど」
「そうですか」
 さっきから思う。
 この人、秋子や亡くなった旦那さんのことに、異常なほど詳しすぎる。
 そこまで親しい人を、私は聞いたことがない。
 私も会ったことがあるらしいけど……思い出せない。
「あ、もうすぐです。ここを右に曲がって……そう、この道のまっすぐ先が駅です。そして、駅の手前のところ、左側に公園があります。駐車は禁止ですけど、停車は禁止されてませんから、すぐ戻られるのなら大丈夫ですよ」
「あ、はい……」
 それに、駅に行くということはここに住んでいる訳じゃない、ということになる。それなら、どうしてここまで土地勘に優れているんだろう?
 この人、いったい、だれ……?
「あ、そろそろブレーキを踏み始めないと、通り過ぎてしまいますよ?」
「あ、はい」
 ゆっくりブレーキを踏みだす。そして止まったところが、ちょうど公園の入り口だった。
 入り口から公園をのぞき込む。すると、予想通り、奥の方に真っ黒な服を着込んでベンチに座っている秋子がいた。正直、そこだけ世間からぽっかり浮いている印象を受ける。
「それでは、私は、これで……」
「えっ? でも先ほどは喪主に挨拶をしてから帰るとおっしゃってませんでしたか?」
「……ええ。ですけど、彼女の元気な姿を見ることが出来れば、それで良かったので。……あ、それと……」
 すると、ごそごそと内ポケットを探り、封筒を取り出した。
「これを、秋子さんに……お願いできますか?」
「はぁ」
 私は、よくわからないまま封筒を受け取った。
 香典、かしら? どう見てもふつうの封筒だけど。
「それでは、失礼いたします。姉さんも、どうかお元気で」
「……え?」
 彼は、最初に会ったときのように、優しそうな微笑みを私に向けると、深々と頭を下げる。それに合わせるよう、私も、慌てて挨拶を返した。すると、では、ともう一度挨拶をし、駅の方に向かって歩き出した。
「あ、私もこうしちゃいられないわ。秋子を連れて戻らないと」
 私は、預かった封筒を持って、秋子のところへ向かった。
 ……あの人の別れの挨拶におかしいところがあったことを、すっかり忘れてしまったままに。

§

 
「こんなところで、何してるのかな?」
「姉さん……? どうしてここに?」
「ホント……あんたって子は! 喪主なのに何をしてるの、勝手に抜け出して!」
「ご、ごめんなさい……」
「まったく……言いたいことはいっぱいあるけど、とにかく戻るわよ、ほら!」
 腕をむんずと捕まえて、思わず口走る言葉。
「妊婦を怒らせないでよね、子供に良くないんだから!」
「えっ……?」
 あ。
 葬儀が終わって一段落してから話そうと思ったのに……言っちゃった。
「えっと……その、三ヶ月なんだって」
「そうなんだ……お、おめでとう……」
 あぁ。やっぱり。口はそう言っても、すごく複雑そうな顔をしてしまったわ……失敗しちゃったわね。
「……あ、そうそう、それと、これ」
 この話題から逸らすべく、私はさっき渡された封筒を差し出す。
「……これは?」
「さっき、私をここまで案内してくれた人が、秋子に、って。香典かしらね?」
 よくわからなそうな顔をして、無言のままそれを開封する。
「!」
 中には一通の手紙が入っていた。
 そして、文面を見るや、驚いた表情を見せた。今までに見たことがないほどの紅潮を伴っている。相当その文面の内容が驚愕だったらしい。
「姉さん! この人は今どこにっ!」
「え? お帰りになったわよ。駅の方に……、ちょ、ちょっと秋子!」
 私の言葉を最後まで聞かず、秋子はすごい勢いで走り出した。
「ど、どうしたの秋子! ……あら?」
 ひらり、と。
 手紙が秋子の手から落ちた。
 それに気が付かないのか、駅の方へ走っていってしまう。
 私は、それを拾い上げると、悪いかも、と思いながら文章を読んでみた。
「!」
 ……確かに、驚くべき内容だった。
 そこに書いてあることは、たった1行。

『約束、守れなくて、ごめんな』

§


 姉さんが来てからそれほど経っていない。電車も、上下線とも来ていない。
 でも、早く、早く探さないと――。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 でも、どこにいるの?
 姉さんが顔を見て気が付かなかったってことは……全く別人のようにしか見えないってことかしら?
「――っ!」
 わからない。けど、探すしかない!
 とにかく、ここにはホームが二つしかないから、どこでもいいからホームへ降りれば全部見渡せるはず……。
 そう思い、手近なホームへ向かった。
「はぁ……はぁ……えっと……」
 降りてすぐ、周りを見渡す。思った以上に人が多い。
 ごちゃごちゃした中をすり抜け、一人一人確認してみる。
 ……けれど、それらしい人はどこにもいない。
 もしかしたら、向こう側……?
「うっ……」
 き、気持ち悪い……。本当に、吐きそうだわ……。
 仕方なく、私はなるべく早歩きでトイレに向かう。
 そしてたどり着くやいなや、すぐに耐えきれなくなり、嘔吐しようとした。
 でも、何も出てこない。ここ何日か食べ物を口にしていないのだから、当然かもしれない。
「こ、こんな、こと、してる、場合じゃ、ないのに……」
 吐くことを早々に諦め、外に出たとたん。

 くらぁっ……

「……え?」
 突然、世界が反転した。
 全ての感覚が一瞬にして失われる。
 ドカッ、と自分が何かに叩きつけられた感触。
 それは、自分が転倒したことと理解することは、そのときは出来なかった。
 ――そのまま、意識もどこかへ飛んでいく。
 抗う。
 でも、それは無駄な抵抗。
 私はそのまま、あっさりと気を失ってしまった……。

 ……え?
 私の身体が……浮いてる?
 持ち上げられてる……のかしら、お姫様みたいに……。
 この……ひと…………だれ……?
「……」
 
§


「……?」
「秋子? 気が付いた?」
 目の前に、姉さんの顔。身体には白いシーツが掛かっている。少し固めのこれまた真っ白なベッドに、私は横たわっていた。
 身体が、少し、痛い。でも、意識を失っていた割にはどこか深刻な打撃を受けたりしていないところは、不幸中の幸いというところなのかもしれない。
「ここは……?」
「駅の医務室よ。秋子、自分が倒れたこと、覚えてない?」
「えっと……ごめんなさい」
「あなた、構内で倒れてたんだって。親切な方がここまで運んできてくださったみたいよ」
「……そう」
「あのね秋子」
「?」
「気持ちは分からないでもないけど……いくらなんでもあり得ないわ」
 遠回しだけど、姉さんが何が言いたいのかは解る。でも。
「でもね、姉さん……私、絶対にないと思ってた小さなかけらをみつけてしまったわ」
「……」
「みつけてしまったら……それを捨てられるほど、私、強くない」
 そういうと、先ほどの手紙をポケットから取り出す。
「あら?」
 姉さんが不思議そうな顔をする。
「さっき、手紙落としたでしょう? ほらこれ」
「えっ?」
 姉さんの手にある紙。それは確かにさっき、私が見た手紙だった。
 じゃぁ、これは……?
 慌ててそれを広げてみる。
「!」
「これは……」
 それは。
 また別の手紙。
 先ほどの手紙の、続きといえるもの、だった。

『さよなら。いつまでも、秋子たちの幸せを、想ってる』

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